東京の夏は年々暑くなっていくような気がする。いや、気がするのではなく、思った通り上昇の一途を辿っている。朝でありながらも熱帯夜の後ということもあってか拭いきれない暑さが肌を覆う。それに伴い高層ビルの多さから極端なビル風の地帯と無風の地帯が入り混じるようにして分かれ、あるところには熱溜まりができる。

　もちろん気温が上がっているのは東京だけではないが、アスファルトの多さからくる照り返しが他の地域とは明らかに違う暑さを生んでいる。

　たまに風が通り抜ける建物の間の細い路地に、なぜか水が溜まっている。ビルから出されている排水なのか何なのかはわからない。その水は気温のせいもあり、少し異臭を放ちはじめている。水は動いていれば腐らないが、留まると腐る。そう思うといつからそこにあるのだろうかと考えさせられてしまう。都会には思いもよらない物が生息しているのだろう。それは自然ではないからこその物なのだろう。

　新宿の駅からそれほど離れていない場所に、一人の男が横たわっている。ポロシャツに肩掛けの鞄を体の上にかけるようにして持っている。見るからに学生のようであるが、あくまでも見た目だけであるために特定できるわけではない。予想では遊び呆けてきたのであろう。疲れているのか、飲んできたのか、寝てしまったのかもしれない。夏であったので良かったと思うのが感想だろう。近くを歩く人たちの視線は、一瞬だけ彼を捉えると、都会の中で溢れている人の、たまにある姿と、特に考えることもせずに無関心に通り過ぎていく。都会だからこその無関心なのかもしれないが、もうそれは田舎も同じく、他人という物に興味は薄れてきているのだろう。そんな日本の縮図だからこそ、都会が最もそのように思える。

　下手に手を出すことが面倒である。もしも何かあった時に責任を取ることができない、もしくは危害を加えられるかもしれない。できるだけ他人に関わるのを避けようとする近代社会の人付き合いが、そこに見え隠れしているように思えてならない。

　よく見ると胸が上下していないように見える。飲みすぎて気持ち良く、もしくは悪くかもしれないが、寝ているのかどうか、遠目では判断は難しいが、他人というのはそれを確認する気もないのだろう。

相変わらず、誰も近寄ろうとはしない。近くを通らないというわけではない。ただ触れることをしないのである。やはり人間関係は希薄になってきているのだろう。

　人として感じていないのか、なぜか一羽の雀が近くに寄っていった。寄ったというよりも、警戒をしていないといったほうがいいのかもしれない。それほどまでに静かなのである。不審に思える。なぜこれほどまでに感覚が感じられないのだろう。

　思わず目を留めてみる。気配があまり感じられない。漫画などではないが、何となくであるが、気配を感じない。

　警察に連絡して起こしてもらうのが一番なのであろう。しかし交番まで行くのは面倒である。手元にある携帯を使い連絡することもしないのは、自分に利益も不利益はないからかもしれない。

　誰も手を差し伸べる人はいない。

　人に興味がないから…

何かをされる可能性があるから…

関わりはなるべく避けていきたい現代の社会構造が見えるような気がする。それでいながら、人との繋がりは無くしたくないらしく、パソコンの向こう側で、全く繋がりがない人と繋がっていることを喜びと感じている人たちがいる。何とも矛盾に思えるが、やはり人には機械ではなく、人が必要だということなのであろう。

　それでも体温を感じる肉体と、それを微塵も感じさせない道具とでは、全く別物である。

どちらでも良い。だからなのか、電車の中でも、歩きながらでも通信機を片手に誰もが歩いている。もはや人は人の温もりは要らないのであろうか。

　いや、そうではないからこそ、今回の出来事が始まろうとしていた。

第一話　　　（一）

　横山佐智は同じ大学に通う古くからの友人である砂原聖羅と共に西武線に乗り、東京へと向かっていた。夏休みに入っているが大学のサークルがあるからだ。まあ、サークルと言っても本気で大会などを目指すものではなく、遊び感覚が強い大学の同好会程度のものである。どちらかと言えば軽く練習を行った後の飲み会や遊びを楽しみにしている会員がほとんどの会である。

　それが悪い訳ではない。二人にしても同じような感覚でやっているのだからそれを別段問題視することはない。

「今日は貢先輩来るのかな」

　佐智はラケットを抱えながら聖羅に問いかけた。今年大学に入ったばかりの１９歳にしては年相応というよりは少し幼さを感じさせる。極端に感じる訳ではないが、高校生という感じに近い。それに比べて女性としては長身に見える聖羅は大人びた感じがある。単純に身長さと言ってしまえばそれまでだが、それだけではない何かが感じられる。

「来るでしょう貢先輩は休んだことないはずだから」

　二人の会話はどちらかと言えば恋愛話であったり、飲み会であったり思春期にありがちなものばかりである。今年高校を卒業して大学に入ったばかりで新鮮味に溢れているから余計なのかもしれない。何度となくそのような会話を繰り返してきた二人であるだけに、佐智は聖羅が貢を気に入っていることを聞いてはないが悟っていた。それを知っていたからこそ、自らの気持ちを正直に出せない自分を恨めしいとも思った。

　三年生の板野貢に対する佐智の思いは、今はまだ大きな想いではない。それでもこれから先、胸の中で膨らんでいくような気がしてならなかった。けれども友人である聖羅が好んでいる様子を見るとそれを表面に出すことは難しい。友人とぶつかっていくだけの強さは佐智にはなかった。

　聖羅も佐智が何となくであるが、貢に対して好意を持っていることは感じていた。それでも自らの気持ちを譲る気持ちはなかった。それに女としては一歩先にいっている自信があるのだろう。ウブな感じを持っている佐智に魅力では負ける気はしなかった。それに貢のようなプレイボーイに佐智が付いていけるとも思えなかった。

　貢がサークルに精を出しているのは、文字道理「精」という文字である。サークルの中で上位を争う格好良さに寄ってくる女も多いはずである。そこは役得であると貢は若い男の精を出すのである。ただ、貢が手を出す女たちは間違いがない、貢に負けないくらいに割り切っている女たちである。お互いさまなのである。好きなように、自分たちが社会に出るまでは遊んでも良いのだろうと考えている。ただ、面倒になるような女と遊ぶ気はないのだろう。一人でも面倒な女に当たってしまえば、これから先、他の女と遊べなくなるのは目に見えている。そのあたりは聖羅も理解していた。確かに貢のことは興味があるが、付き合おうとは思ってもいない。他の女性もそうだし、付き合いたいという意思を貢が読み取ればその女には近づかなくなるのだろう。女たちもあわよくば付き合えれば良い程度なのだろう。お互い、楽しめる関係であるほうが良いのであった。

　だからこそ、佐智に貢が手を出すことはないだろうと思っていた。そして貢は今日もまたサークルにはしっかりと顔を出してくるだろうと思っていた。もちろん女もあるが、やはりテニス自体も好きだからであると、他の面でも聖羅は思っていた。

　取換え引換えできるのも、サークルで恰好の良いところを見せているからだと、自分で言っていたのを聖羅は聞いていたからである。それはちょうど３日前のラブホテルの部屋の中であった。

「そっか、じゃあ少しは上達したところ見てもらわなきゃ」

　貢のプレイボーイぶりに気づいていない、聖羅からしたら能天気に見える佐智に、ある種の可愛さを感じながら言った。「頑張ってね」と…。そこには女として佐智に負けないという余裕が見え隠れしていたが、その感覚が佐智に分かることはなかった。　

佐智たちは数回の乗り換えを終えて大学へと着いた。

　やはり夏休みという時期もあってか、キャンバスの学生はいつもと比べ物にならないくらいに少ない。テニスコートの近くにある更衣室で着替えを済ませるとラケットを持ってコートへ出た。やはり長期休暇のせいだろうか、学生数と同じように、比較的参加人数が少ない。こんなことなら休んでも良かったのではないかと佐智は考えたが、普段体を動かしていないことを考えると運動ができるサークルへ折角入ったのだから、来て正解であったと、自らの思いを修正した。

「珍しく貢先輩きてないね」

　聖羅の何の気ない一言が、佐智の視線を泳がせた。確かにいつも一番乗りしていることが多い貢の姿がないのである。目立ちたがり屋なのか、それとも本当にテニスが好きなのか、場合によってはもう人と対峙して準備運動と称して玉を追いかけている時もある貢がである。

「貢先輩来てないのですか」

「そうなんだよね、貢の奴がこないからさっきから亮たちが電話しているんだけど、出ないんだよね」

　他の先輩に確認をしてみたが、やはり来ていないらしい。佐智も聖羅も腑に落ちない感覚を受けた。それは貢が今まで休んだところを見たことがなかったから、余計にそう思えた。

　その日の練習は何事もなく、いつも張り切っている貢がいないせいもあり、緩やかに収束していった。

そんな矢先である。貢の友人である桜井亮の携帯電話が鳴った。ちょうどコートの端に置いていたスポーツバックから飲み物を取り出そうと亮が近づいた時であった。

　ディスプレイには貢の電話番号が表示されている。心配をしていたが、電話がかかってきたのならば、いつもサークルを休むことがない貢にしても、女とでも遊んでいたのだろうと、軽く言葉を考えた。

「おう貢か、何をしているんだよ」

　しかし、その軽い言葉はふとしたきっかけで消えてしまった。

「警察ですが、先ほどこの携帯電話に連絡をもらっていたようなので、ちょっと電話をさせていただいたのでが」

　いきなり電話口に警察が出たこともあり、亮は不安になった。何かをしくじったのだろうか。貢のことだから未成年に手を出したとか…、そんなこともあり得ないわけではないと思ったが、あれほど慎重に女を選ぶ貢ではそんなことは有り得ないと考えを修正した。

じゃあ、と勘繰ってみたところで、警察に世話になる何かが考えられる訳ではなかった。しかも練習に来なかった理由が女ではなく警察にいるからなのだろうか。自分の頭の中で考えを巡らせようとしてみたが、電話口で相対している警察に聞く方が早かった。

「貢に何かあったのですか」

「ええ、免許書なんかで確認はさせてもらっているのですが、ちょっとした事がありまして」

　警察の口調は淡々としているが、何か気にさせるような間があった。だからと言って亮はどうしてそのような口調なのかは知る術はなかった。ただ何もなく警察から連絡が来るはずはなく、それは不安を増すことでしかなかった。

「ちょっと本人確認をしてもらいたいのですが、実家が遠いようなので、まさか親御さんをこれから呼ぶ訳にもいかないようなので、お願いできないでしょうか」

　何のことかわからなかった。たぶんそこに貢がいるのに、本人確認をしなければならないなどということに、亮の不安は募るばかりであった。免許書を見ていれば写真で確認できるはずでる。

「ちょっと待ってくださいよ、本人がいるんでしょう。それなのに本人確認って…、もしかして振込詐欺とか、そういうのじゃないんですか」

「それはないです、私は新宿署の刑事課に勤める折原信也と申します。できましたら新宿署においでいただけませんか。遠くにいらっしゃるならば結構ですが」

新宿署に行けばいいということは詐欺でもなんでもないらしい。なぜそんな事態になったのか読めないが、ただ一つ言えることは、友人として警察に対して「これからすぐに向かいます」という言葉が出るくらいであった。

何だか面倒なことに巻き込まれたかもしれない。危険ドラックなど、誘惑は様々ある。誰というわけではなく自分が行かなくてはならないようである。友人である貢が仕方なく名前を出したのかもしれないし、呼ばれたのであれば行くしかないと亮は思った。

「何だかヘマしたみたいだな貢のやつ。取りあえず警察にいるらしいから行って来るわ」

　亮は急ぐからと、それほど混み合ってはいないが順番待ちのシャワーを先に浴びさせてもらい、大学を出て行った。

　まだ時間が早いからか、空は夏の日らしく、高く抜けるように青かった。それと並行するようにして暑さはまだまだ残っていた。

亮は新宿署の中に着いた。何があったのか全く分からないが、入ったところにあった案内板を見て、刑事課へと急いだ。

「すみません、桜井亮といいますけど、折原さんという方は」

　走ってきた訳ではないが、警察署の中へと入ると、どうしてもつられるように足が速くなった。状況を早く知りたい気持ちがそうさせていたのだろう。電話では兎に角来て欲しいというだけであり、事態も何もかもが把握できなかった。貢に会って何があったのか、確認をしたかった。

　飲んでいた茶器を置いて一人の男性が立ち上がった。がっちりとした体格の、いかにもという感じの男である。

「お待ちしておりました折原です。こちらへお願いします」

　亮は折原に取調べ室へと招かれた。その中に貢がいると信じていたが、入った時に誰もいない事に気が付いた。

　すぐに会うことができないくらいに酷いことをしたのか。ただそれほどヘマをするような奴には思えない。もしかして、貢を餌に自分を呼ぶことが原因だったのかもしれない。そんな下手な創造をしてみるが、自分が呼ばれるような事があったという記憶はない。それほど自分が良い奴ではないが、警察に引っ張られることはないはずである。

「どうぞ、お座りください」

折原の淡々とした口調は、携帯電話の受話器の向こうから聞こえてきた時よりも、さらに落ち着きを感じられるものであった。こっちを落ち着かせようとしているのかもしれないが、それが余計に亮の背中に不気味な爪で触れているような冷たさを感じさせた。

「別に座らなくてもいいです。貢に会わせてください。それとも会えないような状況なのですか」

　座るとあることないことを言われて、自分が罪に問われそうな気がしてならなかった。もしかすると痴漢などの冤罪で認めてしまう場合はこのように心の余裕がなくなった時かもしれない。全く関係ない事が亮の頭を一瞬よぎった。閉じ込められる前に、ここから抜け出したいと思う気持ちのほうが大きかった。

「わかりました。では、驚かずに聞いてください」

　そんなことよりも亮は、取調べ室に入った時に、貢がいなかったことに驚いている。自分の頭の中で考えていたことと、辻褄が合わなくなってきていることに亮は動顛していた。自分の脳みそが着いていかないのが理解できる。

「実は、板野貢さんが、今朝遺体で発見されました」

　この折原という警官は一体何を言っているのだろう。

一瞬、言葉を聞いた時に何も感じなかったが、ふと考え直してみると変な衝動が走った。先ほどまで、自らが何か疑われているのではないかと思っていて、気が晴れなかったが、折原の言葉を聞いてそれは晴れた。しかし違う雲が頭の中を覆いつくそうとしていた。理解をしようと考えて言葉を思い返してみると、貢が遺体で発見されたという言葉しかならなかった。一人しかいないのに、なぜが頭の中では伝言ゲームのように言葉をすり替えて伝わってきた感じを受けた。

　なぜ、貢が遺体で発見されたのだろうか…折原が電話で言っていた【ちょっとしたこと】が何であったのだろうか…その疑問が折原に向かって発せられた。

「いえ、電話では何かあったと言ってしまいましたが、事件ではありません。外傷もなく、新宿の駅からそれほど遠くない地点で見つかりました。

　朝から板野さんが倒れているのを見ている人が多くいらっしゃるようなので、事件ということは考えられないです。」

「じゃあ、なぜ」

　亮は頭が混乱したままであった。

　それではなぜ、貢が新宿で、朝から死ななければならなかったのだろうか…。

　しかも外傷がないということは、何を意味するのであろうか…。人が死ぬという事が何であるか、それを考えられるような年齢ではなかった。突然死にしても年齢を考えた場合にそれがあるとは確率的にそうとう低いはずである。

「それで、実家は遠いようなので、まず友人である桜井さんに板野さんであることを確認してもらってから連絡を差し上げようかと思いまして」

　やっと、本人確認の意味が理解できた。本人が亡くなっているからこそ…ということである。亮自体は生まれてこのかた死体などというものに対面したことがない。気持ちが耐えられないとかではないが、もちろんいい気分でなかった。

　冷たい雰囲気の霊安室に置かれた蝋人形のように固まった死体を見て、亮は貢本人であると確信をした。死後硬直の貢を見ていると、気持ちが悪いというよりも、不気味な気持ちを胸に抱きながら、小さく間違いありませんと折原に告げた。本人でありながらも本人ではないような気がしている。思っていたほど気持ち悪くはなかったが、気持ち悪いというよりも、夢を見ているような感覚に陥って実感が沸いてこない。現実と仮想の区別が頭の中でつかなかった。

　表情がそれほど変わらずにいる折原を見ていると、同じ人間であるように思えない。確かに折原が淡々としているのは職務であるからかもしれないが、亮はそれとは対照的に驚きの表情が固まったようであった。

　折原が言っていたように、外傷がないせいなのか、硬くなっていることを除けば、ただ寝ているように見えなくもない。これが殺人や交通事故であったならば、おびただしい血にまみれた死体があったのかと思うと、少しだけもよおしてきた。それを唾液と一緒に飲み込んだ。人間であって人間ではない。遺体とはそのような物だと亮ははじめて認識してしまった。

その時の、貢の遺体を見た感覚は一人暮らしの家に帰ってからも続いていた。

　折原の話によれば、貢の両親に連絡を取り、その後行政解剖に回されるだろうという話であった。よく聞きなれない行政解剖という言葉と、司法解剖の違いを折原から聞いて少しだけ理解はできたはずだった。

　司法解剖は、殺人などの犯罪やその疑いがある場合で、行政解剖は、犯罪性は低いが異常死体として見なされた場合に行われる。亮には何が異常かはわからないが、全くの無傷の死体がなぜ街の中で見つかったのか、やはり警察としては調べなければならないのであろう。場合によってはヤクと呼ばれる覚せい剤や危険ドラック服用という事もあるのかもしれないが、そんな物に貢が手を出すようには思えなかった

自宅のいつもの慣れた空間の中で、いつもと同じ床の上にいても、ふわふわとした足の感触だけが残っていた。それを押さえるためにも、無理に頭を整理し、考え納得してみようと思ったが、考えれば考えるほど頭の中が混乱してくる。亮は思わず部屋に置いてあったウイスキーを瓶のまま飲もうと手に取った。酒の力に頼るしかないと無意識に思ったからだ。いつもならばハイボールで飲むウイスキーが妙に瓶のままのストレートの状態で体内に入り込んでくる。熱いアルコールの刺激が一瞬厳しく感じたが、飲むことをやめることはできなかった。そしていつの間にか眠りに落ちていた。

　翌日、飲みすぎた頭を押さえながら亮はネットニュースなどで貢の事がでていないと新聞を駅で購入してから学校へと向かった。

　貢の記事は何一つ載ってはいなかった。この手の物はネットの方が取り扱うのかもしれない。そこに乗っていなかった時点でやはり事件性が少ないので公表されることはなかったのだと思った。

その後ゼミの教授である高畑章司を訪ねた。今朝飲み過ぎた頭を抱えながら、一人で背負える問題ではないと思い、少しまだ酒が残っている状態ではあったが高畠に連絡を取り、学校で会う約束をしていた。

　内容も何となくではあるが伝えていたために、高畑は学校へ来る前に折原に連絡を取って事実の確認を済ませていた。

「兎に角、なぜ板野が死んでいたいかはこれから警察が調べると言っていたから、まかせるしかないだろう。他の生徒への連絡は取ったのか」

「いえ、高畑教授と話してから決めようと思っていました。自分では何が何だかわからなくて、どうしていいのか」

　亮は二日酔いと、死体を見た気持ち悪さで自分の顔が一日で青白く、こけたような気がしていたが、昨日とは異なり、少しずつではあるが気持ち悪さなどを自分で実感するうちに、貢が亡くなったことを受け入れていた。だが、これをどのように友人やサークルの人たちに連絡したら良いのか、何一つ名案は思い浮かばなかった。だからこそ高畑に相談をしているのだ。

「学校としては、まず板野の両親と話をして、そこから決めようと思っている。事件性が少ないということなので、他の生徒たちに話してもそこまでの影響はないだろうから、とりあえず知っている人たちに連絡を取ることは別に止めはしないよ」

　その言葉を聞いて、亮は高畑と次回のサークル活動の際にみんなに報告をすることに決めた。数人からは、昨日のサークルに貢が来ていなかったことと、亮が警察に呼ばれて真っ先に帰ったことから、何か知っているのではないかとメールが来ていた。そのメールには「状況がまだわからないから、詳しくわかったら連絡する」とだけ書いて終わりにしていた。

　高畑は問題ないと言っていたが、亮たちの年齢では友人の死にそれほど出会ったことはなく、やはり友人たちに伝えることに戸惑いを覚えていた。それでも早いうちに知らせなければならないと焦る気持ちもあった。

　とりあえず、学校を出て、喫茶店に入ってから、昨日メールを送ってきた数名へと、貢の死を知らせた。詳しくわかった訳ではないが、貢の死と、行政解剖に回されるだろうという事だけを、淡々と書き記した。感情を込めようとすればするほど、おかしな文章になるために、淡々とした文章になってしまったのだ。

　数通の返信があったが、どれも曖昧な感じのもので、それなりに動揺はあったが、高畑が言っていたように、事件ではないので、それほど驚愕したメールはなかったが、亮と同じで、人の死に、しかも同年代の死に出会った経験のないものは、何て返してよいかわからない気持ちを読み取れるくらいの文章になって、伝えきれないほどの動揺は個々にあったのを、自らの感覚に照らし合わせて亮は感じていた。中には「遊び過ぎていたから」などと理由が通じないことを書いてくるものもあったが、どのメールに関しても亮はだんまりを決めていた。

　ある意味夏休みで良かった。

　そうでなければ、メールではなく、あちこちから人が集まってきたに違いない。それに一つひとつ答えるのは避けたかった。今後どのようになるかはわからないが、ぽっかりと空いた穴が埋まるまでに、亮としては時間が欲しかった。これでも仲の良かった友人の死なのである。知らない人だらけの喫茶店の中で、涙をこらえるのに必死であった。ここで泣く訳にはいかない。逆に自宅に帰らずに喫茶店に入ったのは、それを拒否するためだったのかもしれなかった。

（二）

　三迫昌昭は涼しい部屋の中で、運ばれてきた一体の死体と向き合っていた。これと言った外傷はなく、何が原因なのか特定するのは面倒にも思えた。少なからず原因が分かればと思うが、何が原因か、特定するのは難しかった。それでもやる事が仕事だからもう少し粘ってみようと思った。

「どんな感じですかね」

　立ち会った折原は三迫へと尋ねた。

「特に損傷などはないので、それは先ほど確認し記録写真を撮りました。病歴などを見てもこれといったものは見当たらないですね。突然死の原因となる脳や心臓も特に異常はないようです。一応血液、薬毒などの検査を行おうと思っていますが、これに関しても遺族の承認は取れていますか」

「特に問題はないと思います。行政解剖に回すということは通知済みですし、その件に関しては了承を取っていますから」

　不思議な外傷の無い遺体を前に、折原は三迫からの問いに答えを返した。死体を見ることは慣れているので、このような遺体を前に動揺することはないが、何が潜んでいるような気がして、自らの経験を基に行政解剖に回したのだ。

「わかりました。死体は保管をしてこちらで預かっておきますので、新たに何かわかりましたら、連絡させていただきます。それと一応病理解剖はしなくても良いと思われるので、遺族の方の依頼があった場合のみ行わせていただきます。無理して遺体を傷つけて返すこともないでしょうから」

　三迫は、警察が一応確認のために行政解剖を依頼してきたことを理解していた。これといった事件性がなく、何でもない状態にあったのであるのならば、わざわざ傷をつけて両親の元へと返すことはない。それは深い悲しみに包まれた両親を傷つける事にしかならない。

　監察医の仕事を嫌だとは三迫は思っていない。それどころか遺体がどのような事を物語ろうとしているか、それを見極めようと面倒だと思う時もあるが、使命感を持っているつもりである。場合によっては死者の言葉を鑑識の人間と共に導き出そうとしている。もしも何か語りたくても語ることができなかった事が見つかるのならば、色々な意味で、最後の言葉として死んだ人間の無念を晴らす最終手段になっていると思えるからこそ、この仕事を続けていけるのだろう。

　三迫が仕事ではなく生きている現在で嫌な言葉といえば三八にもなって独身でいると母親の「いつになったら結婚するの」という言葉くらいなものである。都会にいるとそんなことを考えないが、実家の富山へ帰った時には長男ということもあるのか、二男が結婚しているからなのか、余計に突っ込まれてしまう。

　ただ実家へ帰ることは嫌ではなかった。やはり母親の元気な顔は見たかった。若くして亡くなっていった父親の老いた姿を見ていないかわりに、いつまでも元気で生きて欲しいと思っていた。だから忙しく今年はお盆に父親の墓参りに帰れなかったことを残念に思っていた。

　折原はこれから見える板野貢の親に会うのを少しばかり憂鬱に思えていた。長野出身の両親は新幹線に乗って太陽だけでなく、コンクリートの暑さも含む東京へ出てくるという。事件性はほぼないにせよ、遺体を引き渡す作業がどれほど辛いか、警察という組織にて死体を見慣れていても、この時ばかりは嫌気がさしてしまう。

　自分にも一八歳の娘がいるが、その娘がもしも遺体で見つかったりしたら、やはり耐えられるものではないと、親として思う気持ちもその感覚に拍車をかけた。それがどのような状態の遺体であったとしてもそうであっただろう。

　死を迎えるという順番だけは守って欲しい。親のエゴかもしれないが、そうは思うからこそ、自分よりも先に逝って欲しくはない。しかし、遺体が帰ってこない事件もあり、そのようなことも辛いことである。遺体を返すだけでも良いのかもしれないと思いながらも、やはり健康で生きていて欲しいのである。それが親というものなのだろう。

　煙草をふかしながら折原は板野の両親を待った。途方もなく長い時間に感じられたが、実際は署に引き返してきてから、それほどの時間は経っていなかった。ただ息子の死を受け入れなければならない両親の気持ちを考えるとか、その時間は考えられないくらいに長くなっていく。ふと煙草に火をつけてしまうのもそんな感覚からであろう。

「折原さん、板野さんのご両親がお見えです」

　受付の女性職員に通されてきた板野夫妻は、たった一日で痩せ細ったかのような、そんな感じを受けるような、疲れの見える顔であった。元の表情はわからないが、頬がこけている印象を受ける。息子の死に対する心労は計り知れないものなのだろう。

「貢は今どちらに」

　父親の声は凛としていたが、やはり落胆の色は隠せなかった。母親はその後ろに従うように小さく佇んでいた。それほど大きくない体が余計に小さく見えていた。

「今は監察医務院にいます。外傷はないので、解剖は行わないほうが良いかと思い、傷をつけたりはしていません。一応血液、薬毒の検査のために採血は行っております。これ以上の監察が必要ないというのであればすぐに身柄を引き渡ししたいと思っております」

　折原はいらない事は言わずに淡々と説明した。

「身柄を引き取る場合にはやはり車が必要なのでしょうか」

「そうですね、そのまま新幹線に乗せる訳にはいかないでしょうから、車はあったほうがいいと思います」

　その答えに、貢の父親はすぐに親戚か誰かに連絡を取るために携帯電話をかけながら折原の前から少しだけ身を隠すようにいなくなった。

「薬物などをやっていたら、それによる心肺停止もあるんですよね、その場合には」

　母親は都会の息子の生活を垣間見なかったことに苛まれているのか、それとも世間体なのか、死因がどのようなものであったかを知りたがっていた。もちろん悪い事でなかったとしても辛いものであろうが…。

「さあ、薬物の場合の検査を現在していますが、鞄などの中から所持されている形跡はありません。あとは自宅を調べてみないことにはわかりませんが、その線は薄いでしょう」

　信用されていたのか、信用されていないのかは分からないが、やはり親は息子の行動が気になっていたようである。たまに里帰りをするとはいえ、親の前に居る時と、一人暮らしの状況が同じとはいえない。ただ、警察がこれ以上自宅を調べたりすることはないということだけは告げた。何となく気になって行政解剖に回したが、これ以上調べる必要はないと思えた。

　折原は自らが、娘のプライバシーの詮索ということに関して、一緒に住んでいてもなかなかできない作業であるだけに、やはり親は、ただ子供たちを信用することしかないのかもしれないと考えていた。自分に重ねれば重ねるほど、折原はやりきれなくなるばかりであった。それでも構ってくれない両親に寂しさを感じて、薬物に手を染める子供もいるので、どれが良いか悪いかなど正解はなかった。そればかりは親子の育った、育てた環境によるものでしかなかった。

　板野の両親はどちらにせよ、これから息子の家を片付け、大家に契約の打ち切りをしなければならないだろう。その間に、親が心配しているようなものが出てこないことを折原は心情として祈っていた。

　両親が帰った後に、折原はやるせない気持ちで煙草をふかしていた。毎回こんなことで感傷的になっていたのでは、警察官として持たないと同僚たちに言われながらも、長い間職をこなしてきた。少なからず、こんな刑事がいてもいいのではないかと、折原は思っていたし、親の心情は自分に置き換えれば痛いほど分かるつもりであった。せめて親よりも早く死ぬ子がいないように考えていた。

　　　　　　（三）

　貢が亡くなってから初めてのサークルが開催された。暑い中で、どんよりとした雲が空を覆う、嫌な感じの日であった。亮が警察に呼ばれてから三日後のことである。練習が始まる前では収集がつかなくなるかもしれないので、貢の死は練習が終わった後に亮の口から話された。

　佐智も聖羅も動揺を隠せなかった。事件ではなく突然死…それがどのようなものなのかわからずに、ただ人の死というものが圧し掛かってきていた。知人の死に遭遇したことが少ない年代の子達にはやはりこたえるというよりも実感が沸きにくいのであろう。

「そういえば今朝、寮での話だけど、一人が変死で見つかったって言っていたな」

　ある部員がふと言葉を発した。

　詳細は、隣の部屋の学生が、昼夜問わず部屋からずっとテレビの音が聞こえうるさいと寮母に話をして、一緒に部屋を訪れた際に見つかったということであった。

　外傷はなく、何らかの原因で死亡したのではないかと警察がきて調査中であるという。検視の結果では死後１〜２日程度しか経過していないのではないかということであった。

「誰か知っている人いる」

「名前がわからないとね」

　そんな言葉が方々で上がり始めた時に、ある部員が口をだした。

「そういえば一週間くらい前に貢が手を出したコが、確かその子だったとか聞いたけど…」

確証を持てないからか、小さな声で発した言葉であった。その言葉から妙な憶測が飛んだ。二人が絡んだ死ということと、体の関係があったとか無いとか、そんな繋がりの中で何かがあるという話をしはじめた。

「心中とかじゃないよね」

「当たり前だろう、別々の場所だし、第一貢には外傷がなかったんだろう」

「そうだよ、貢が女のために死ぬ訳がないし」

　サークルの一部の人間たちは、貢が遊ぶだけ遊んでいたのをしっている。しかも所詮女もその噂を知っているだろうから、お互いが遊びである可能性が高いのもわかっていたはずである。

　佐智は女のためにという言葉に、今まで知らない貢の一面が潜んでいるような気がしていた。

「じゃあエイズとかか」

「莫迦だな、そんなにすぐ発症するわけがないだろう」

　ただのゴシップになりそうな話であった。佐智は貢があちこちの女に手を出しているなどという話は知らなかった。自分が鈍感なのか、それとも違う側面ばかりを見ようとしていたのか、憧れであった貢の知らぬ一面を聞いて驚いた。

「貢先輩ってあちこち手を出してたんだ」

　ふと聖羅に話を振った時であった。聖羅の表情に戸惑いがあるのが分かった。その時ばかりは鋭い女としての感覚が佐智の中に宿った感じがあった。

「もしかして」

　聖羅を見る目が少し厳しくなった。古くからの友人である。そんなはずがない、否定してほしいという願いも少なからず入っていたのかもしれない。

「いや」

　明らかに動揺の色を隠せない聖羅を今一度問い詰めた。

「この間、飲んだ帰りに、酔っていたし、盛り上がっちゃったから…」

　そう聖羅が言いかけた時であった。全身の力が抜けて、瞳がシャッターを下ろすかのように閉じ、潰れこむようにして聖羅の体が倒れた。

　大きな佐智の悲鳴と共に、あちこちで貢の噂話をしていたみんなの視線が集中した。その先には倒れこんだ聖羅がいた。

「大丈夫か」

　救命講習を受けたことのある数人の学生が倒れた聖羅に近づいた。

　口元に耳を近づける。明らかに呼吸が止まっている。視線の先にある突起した胸が上下する動きもない。素早く胸に手を当てる。男が胸を触るのに躊躇している場合ではなかった。その手から心臓の鼓動を感じることはできない。

「誰か、救急車を、あとＡＥＤが部室にあるはずだから、取ってきてくれ」

　その言葉に反応して一人の部員が部室へと走っていった。慌てている部員の中で比較的冷静な女が近くのベンチにおいていた鞄から携帯電話を取り出して一一九番へと連絡をした。

　佐智の動揺は隠せなかった。力が抜け、しゃがみ込んでしまった。今まで話をしていたのに…。口に手を当てたまま、放心状態になってしまった。それを見たひとりの先輩が、佐智を少し離れた場所に連れていき座らせた。

頭の中の回路が混乱を招いている。佐智は何をどう考えたら良いのかすらわからなかった。ただただ、潰れるように倒れた聖羅の映像だけが何度も流れているようであった。

　人工呼吸、心臓マッサージが続けられていく。何回も救命講習を受けていたのであろうか、迅速に行われた作業は的確に進められていく。

　衣服が脱がされＡＥＤが体につけられた。なるべく女子部員たちで聖羅が男の視線にさらされないように覆う。若い女性としては嫌がる場合もあるが、そんなことを言っている場面ではない。見守る部員たちの視線が悲痛な思いを込めている。貢の話の延長のように誰もが思っていた。別段二人の関係がどうこうではない、身近に起きた死という言葉が連鎖しているのである。

ＡＥＤ体に付けた際に必要か必要ではないかを判断してくれる。その上で聖羅の状態でＡＥＤの必要ないとの判断がでた。この場合、心静止している可能性が高い。実際に初めに聖羅の体に触れた時に心臓が動いている感覚はなかった。

　人工呼吸、心臓マッサージが長く感じる時間の中で続けられる。救急車が着いたが、未だに心臓が動き出す形跡はない。救急車には応急処置をした先輩と佐智が乗ることになった。

　その頃には、空は厚い黒い雲におおわれ、今にも雨が降り出しそうな気配であった。

　救急搬送される車の中で、先輩は隊員たちに状況を説明しているが、佐智は何もできずに茫然とすることしかできなかった。

　佐智が正気を取り戻したのは、病院に着いて、しばらくしてであった。正気とは言っても正常な感覚ではない、足が地に付かないということがこのような状態であると自らが感じるほどであった。動揺は隠しきれないままであるが、唯一行動に移せたのは、聖羅の自宅に電話することだけであった。

　聖羅の両親はすぐに向かうということ返事をして、電波を遮断した。

　しかし両親を待つことなく、聖羅は応急処置ののち、病院での治療の甲斐も虚しく、その後心臓は一度も動きだすことはなかった。

　佐智は自らを責めるしかなかった。自分があの時聖羅を問い詰めなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。冷静に考えればそんなことはないのであろうが、聖羅の死を知った直後であったために、心は制御できない状態になっていた。

　聖羅の両親が病院へと着いたのは、雨が強く降りだしてからであった。佐智は自らが泣きたい気分でもあったが、両親の前ということもあり、なるべく泣かないようにしよう努めた。しかし、止まらない雨のように、つい涙が頬を伝わり、それが止むことはなかった。

　家に帰ってからも放心状態が続いていた。帰った直後に母親にお帰りと声をかけられても返事もできずに自らの部屋に籠ってしまった。

　貢が亡くなってから、今日の亮の説明であれば三日、そして今日、友人である聖羅の死である。これほどまでに知人が連続で死を迎えることなど、まずありえないことである。暑さが理由の熱中症などではもちろんない。原因がわからない人の死。その事実を受け入れられないまま、佐智は何もすることができなかった。

　ただ、涙が止まらない。心が張り裂けそうな衝動が、どうしても抑えきれなかった。

聖羅が倒れる前に問い詰めた、貢との関係があったかどうかなど、そんなことはもうどうでも良かった。ただただ、あの場面にいたことが忘れられず脳裏に何度も思い出された。聖羅に問いかけた時の倒れていく様が、何度もゆっくりと頭の中で再生された。

　亮も茫然とせざるをえなかった。その後、同じサークルの友人と飲みに出たが、何ら解消されるわけもなく、前回の貢の死の時と同様に酒に頼る以外、何をしたらよいのかわからなかった。記憶を消去することはできない。だからこそ、ただただ飲んだ。降り注ぐ雨のように、酒を浴びるようにして飲んだ。

「亮、そんなに落ち込むなよ」

「そうだよ、お前のせいじゃないんだし」

　友人たちは聖羅が倒れたことにまで気を重くしていると思い、声をかけた。亮の中では確かに聖羅の死も衝撃であったが、それだけではなかった。

「でも、お前たち、死人を目に前にしたことがあるか。警察に呼ばれて貢の死体を見た時に、何だか頭の中で、プツって糸が切れたような気がしたんだ」　

　その時の衝撃が、今日の目の前で倒れた聖羅を見た時に、余計に重くのしかかってきた。その後、聖羅が亡くなったという連絡が入ってきた時に、更に重く自分が悪いわけでもないのに、自分が罪を作ったような気分になっていった。

　何がどのようになったのかが、全く理解できなかった。

　ただ、この二人の死をきっかけに、これから起こる出来事がどのように拡散されていくか、亮のみならず、部員たち、そして部屋の中で塞ぎこむ佐智でさえもも知る由もなかった。

　　　　　　（四）

　翌朝、思わぬ出来事が報道された。

「先週から昨日にかけて、東京で変死の方が一〇〇人以上病院への搬送やされているもようです。その方たちは自宅や路上などで発見されているということです。

　全ての遺体に外傷はなく、心肺停止による死亡のようです。」

　思わずテレビをつけていた佐智は驚きを隠せなかった。まだ友人である聖羅の死を信じられない中で、何とか精神の安定を保ち受け入れようとしていたところに、同条件で亡くなった人たちがいるという報道は、何だか夢を見ているようにしか考えられなかった。これが夢であるならば、さっさと覚めて欲しかった。

「亡くなった方たちの一部は関連があるが全体的に関連はなく、事件性もないと思われます。ただ症状がみな同じようなもので、各救急病院や警察の方々も処理に追われているとのことです」

　切迫したように病院の前で記事を読み上げるアナウンサーがテレビ画面の中で、全国へと電波上で話し続けた。

「これって、何が起きているの」

　夢だと思いたいが、報道が終わる頃には少しばかり冷静に考えられるようになっていた。佐智は貢、聖羅がこの報道と同じ状況であったのではないかと、ふと考えた。しかし、どこで何が繋がっているのか、大学生である佐智が分かることはない。ただ、変死者という大勢の中に二人の知人が入り込んでいるような気がしてならなかった。先ほど死亡者につながりはないと伝えられていたが、どこかでつながっているような気がしていた。貢と聖羅にもしも男女の関係があったとしたら、それだけでも十分に繋がりがあると思えた。

　そういえば、貢が亡くなった当日、亮が警察に呼ばれ、遺体の確認をしたという話をふと思い出した。亮がどのような貢の遺体を見たのか、そして聖羅の死をどのように考えたのか、そこからテレビの報道と同じような感覚を持つのか、また自分が考えたようなことを思うのか…、意見を聞きたくなった。

　思わず階段を駆け上り、携帯電話をつかんだ。

「もしもし」

　電話の向こう側の亮は眠そうだった。昨日の酒が抜けきっていない。しかし、そんなことを知らない佐智は、眠気と酒を一気に吹き飛ばすように、駆けるように電話に出たばかりで少し寝ぼけている亮に話を始めた。

「亮先輩、今やっているニュースなんですけど、見ていますか」

「いや、まだ布団の中だけど」

　佐智の勢いのある言葉に押されるようにして、亮は布団の中からリモコンを利用してテレビの電源をいれた。だが言われた局番はもう違うニュースを報道しており、佐智との話がすれ違い、何を話しているのかわからなかった。

「変死のニュースなんてもうやってないなぁ、ちょっとまって、ネットニュースを見るから」

　わざわざ布団を抜け出してパソコンを立ち上げるのは面倒がと思われたので、スマートフォンを利用してネットのニュースを拾ってみる。だいぶ時間の短縮になるのであろうが、佐智にはそこかしこに飛んでいる電波を捕まえるまでの時間が、異常に長く感じられた。何度唾を飲み込んだことかわからなかった。

「あった、１００名くらいが先週から変死体として亡くなっている。外傷、病気などの経緯もない人が多いことから始めは大きく報道されることはなかったが、一週間で何もない人たちが死んでいくということから、不審がった医師会・警察が捜査に乗り出しただって」

「そうです、外傷も病気とも考えられないってところが、二人に、貢先輩と聖羅の状態に似ているようで、ちょっと不思議なんです」

「でも、この変死というのと関わりがあるのか」

「少なくても二人を見ているのは亮先輩しかいないんです。何か感じたことなんかはないんですか」

　まだ回転しきらない、二日酔いの亮の頭に佐智の突き上げるような物言いが、少し辛く感じた。こんな時に女の高音の声は勘弁してもらいたかった。昨日の今日で佐智の頭が混乱しているのもわかるが、あまりにも走り過ぎているような気がする。ちょっと気負っている感覚を押さえたかった。ついでに水を飲んで自らの酒の残りを少しだけでも飛ばしたい気持ちであった。

　幸い、今日は丸々一日空いている。冷却の意味も兼ねて、亮は佐智と電話では何だから、昼過ぎに会う約束をして電波を遮断した。

　起こされたことに、別段怒気を出すことはなかった。しかし漠然とした頭を覚ますためにシャワーを浴びて自らを呼び戻していく。

　貢と聖羅の二人の死に直面しているとはいえ、貢は死んでから、聖羅は死ぬ時である。その状況をどのように判断して佐智に話すべきなのか、そしてそれが分かったからと言って生き返るはずもなく、また捜査などに関して自分たち素人が何もできる訳ではないことをどのように佐智に伝えるべきなのであろうか…。亮は冴えない頭を温水にさらしながら考えていた。

　三迫はやっとの事で監察医務院を出た。昨夜から数体の解剖を行った。前回行った外傷はなく、病気などが原因の死の可能性もない死体である。しかしながら行政解剖だからこそこれくらいで済んでいるが、司法解剖の病院は大変なことになっているだろう。まあ、事件性を考える前の段階では司法解剖を行う病院には一体も流れていなかったのだろうが…。

　遺体は解剖をしても何が原因かつかみにくく、細胞を確認しても変色などをしている部分もなく、なぜ死に至ったのかもわからない。昨夜から解剖をいたが、もちろん脳内出血、心筋梗塞などの症状もなく、何が原因かもわからない。

　思えば３日前に運ばれてきた解剖をしないで身柄を引き取らせた男からはじまった。それほど大した問題はないと、身内に引き取らせてしまったが、もっとしっかりと観ておけばよかったと後悔している。

　ただ、４日の潜伏期間で、何かがあったとしても改善できるとは限らない。それでも少なからず、様々な状況において全てが同じ原因だとした時に収束に向かえる何かができたかもしれない。

　今は１００人超かもしれないが、もしも何かしらの因果関係、もしくはウイルスなどの病気という事であれば、これからどれほどの人が同じような状況で亡くなっていくかわからない。早期の発見が必要とされた。血液検査の結果は届いてはいたがまだ目を通していない。それほどあの３日前から、次々と運ばれてくる患者を診ていたのだから、院長に、今日は帰って休めと言われても仕方がなかった。数時間の仮眠では疲れは取れていない。目の下のクマがそれを物語っていた。

　自宅はそれほど遠くない。さすがにいつも寝ている布団の上での疲れと、仮眠室と称したベンチの上で寝ることでは疲れの取れ方が異なるし、やはり自宅のほうがマシであった。ただそのまま帰る気も起きずに、池袋の駅を出て、いつも寄る喫茶店でハーブティーでも飲んで、安眠でも誘おうと、三迫は思い、うっ血して浮腫んだ足を引きずっていた。

「亮先輩」

　佐智は大きく手を振った。それはかなり目立つものであった。多くの人の中から手を振る佐智を探ることもなく見つけ出し、近寄ろうとした。だがそれよりも早く佐智が駆け寄ってきた。電話で感じた切迫した表情は見られなかった。少し時間が経って冷静に戻ったのであろうか、そんなことを感じられなくもないが、やはり友人の死を間近にしてそんなにすぐに割り切れるものではないことを、亮は自身の経験を持って理解していた。

「悪いな、わざわざこっちまで来てもらって」

「そんなことないです。立ち話もなんですから、どこかに入りましょう」

　やはりどこかで結論を急ごうとしているのかもしれない。自分の頭の中で何かを考えているのであろう。

　確かに亮もネットで見たニュースを、どこか貢の死に結びつけそうな感じになった。

自分の頭を納得させるには、どこかで結論を出すしかないできないのである。しかし今更自分たちが騒いでみたところで、問題が起こるわけでもないし、解決するわけでもなかった。それでも佐智の話を聞いてみようと思ったのは、やはり友人を失ったという、同じ境遇を受け入れようとしていたからであろう。そして受け入れると同時に、自らを逆説として納得させるという無意識の意識が働いていたのかもしれない。

「あまりうるさいところだと嫌だろうから、喫茶店にでも行こう。ちょっと古臭いがなかなか旨いコーヒーを出すところがあるんだ」

　佐智を励まそうと笑顔になろうとするが、やはり聖羅という後輩が死んだこともあり、亮自身なかなか笑顔を出せる状況ではなかった。ギクシャクした笑顔はどこかひきつった物になってしまう。

　亮が連れて行った喫茶店は混んでいなかった。夏休みの昼明けということもあるのか、社会人はもう食事を切り上げて帰っていってしまった時間だからか…。店にとっては、少しの空白の時間なのであろう。そうとれる店内には一人の男が疲れ切ったかのような表情を浮かべてカップを持ちながらうつらうつらしているだけであった。

　飲み物を注文してから、佐智は少しずつ自分を落ち着かせるようにして、話を始めた。

「今朝、ニュースを見て思わずはっとしたんです。聖羅は持病もなく、病院に通っていることもなかったはずです。唯一通っているとしたら歯医者くらいだったと思うんです、だから倒れるはずがなかったんですよ」

「でも、実際には倒れた。だから今日のニュースのように、変死ではないかと思ったんだよね」

「そうです、いかにもと思えたんです。病院に運ばれた時には心臓が止まっていて、結局は心臓を動かす処置しかされていなかったはずです。脳や心臓にも影響はなかったとお医者さんは言っていたみたいですし」

「確かに心臓だけ止まった。俺もグラウンドで処置をされている彼女を見ているからわかっているが、ＡＥＤが作動しなかったから心臓が停止していたのだろうけどね」

「ＡＥＤが作動しないと、完全に心臓は停止しているのですか」

「動いていて必要がない場合もあるが、あの時は動いていなかったからそうだったはずだよ、講習の時に話を聞いたから」

　だから心臓マッサージのみだったのだろう。確かにＡＥＤはグラウンドでは使うことはなかったのを佐智は記憶している。

　ＡＥＤは心臓が痙攣している状態である心室細動の状態の時に必要なもので、動いていなかれば必要ではない。もちろん動いていない状態でも同じである。

「ただ変死の全部が同じような状況でないはずだろう。うちはまだサークルの中で俺も含めて救命救急の講習を受けているから、心停止なんて思っただろうけど、何も知らない人だと、ただ救急隊が来るのを待つ場合だってあるだろうし、翌日起きたら死んでいたなんてこともあるから、状況を把握できているケースも少ないから、同じとはいえないだろう。

　それこそただの心臓麻痺ということも考えられる」

　聖羅の死が関わっているから佐智が必死なだけで、全く今回の変死とは違うかもしれないという感覚が亮にはあった。どこかで理由をつけて友人の死の責任を葬り去りたいような気がしているのかもしれない。亮自身も４日前に同じようなニュースが流れていたら少なからずそう考えていたのかもしれない。

「第一、貢と砂原の死因が同じだということ事態どうだかわからないだろう」

　確かにそうである。少なくとも佐智が感じているのは、あの時の聖羅と貢との関係を問いただした時の表情でしかない。そこから肉体関係があったと思っているだけである。その肉体関係がこの死につながっているのではないかという、あくまでも空説の世界になってしまっている。このことを亮に言うべきなのか、言わないほうが良いのか、佐智は渇いた口腔内にコーヒーを流し、一時の間をおいて考えた。

　亮と貢の仲が良かったせいか、聖羅とのことを知っているのかもしれないが、亮が知らなかったとしたら、死人に鞭を打つようなことになってしまう。佐智はそこまで考えたが、やはり言う事を決意した。

「確かに、死因がどうかはわかりません。でもみんな不明なんですよね。それに貢先輩と聖羅はあの数日前に肉体関係があったみたいですし、何かあってもおかしくないような」

「ちょっと待って、肉体関係があったと仮定して、血液感染の可能性があるってことかい。それ以外の感染が方法としてどうかはわからないが…。でも血液感染で今回の死者が出ているというニュースは流れていないし、ＨＩＶにしても潜伏期間が長かったりする。すぐに発症する血液感染の病気なんて考えられないんじゃないかな」

　亮は少し冷静になったほうが良いと、佐智を落ち着けさせた。佐智も勢いに任せて話しているが、確かに自分たちが何を言っても、解剖の現場にいるものでなければはじまらない。それに解剖をしたとしても、二人の肉体関係による血液感染のせいかどうか、自らがわかるはずもなかった。

　三迫はふと目を覚ました。ハーブティーの入ったカップに手をかけたまま、いつの間にかまどろんでしまっていた。カップを持ち上げていたらどうなっていたか、想像すると手をかけた状態であったことに安堵した。

　何となく、周りの声が聞こえていたような気がするが、目を覚ました時に客は自分ひとりで、誰も他にはいなかった。自宅に帰って布団に入ろう。そう思い立ち上がろうとした時に、机に置いてあった伝票が落ちた。

　疲れている時には、立つのもしゃがむのも怠かった。覚悟を決めるようにして三迫は膝を折った。ふと伝票と共に、小さな手帳のようなものが落ちていることに気がついた。生徒手帳のようなものだった。

　何となく、まどろみの中での男女の話が蘇ってきた。確か、変死とか言っていたなぁ、友人二名がとか、血液がなどと言っていたような。

　本来であれば手帳を店員に渡して帰るべきであろうが、何だか気になった三迫は、その生徒手帳を鞄の中にいれた。

　場合によっては、連絡をとらせてもらうかもしれない。鈍った頭の中で、妙な感覚だけがそう考えさせていた。はっきりとした頭であったならばそんなことはなかったのだろうが…。

　喫茶店を出て、未だに浮腫んだ足を気にしながらも、自宅へとゆっくり歩いていく。数日ぶりに自らの布団で眠れる安堵感を考えながら三迫はゆらゆらと揺れながら、頭を空っぽにして帰っていった。

第二話　　　（一）

　何故、あんなにも簡単に聖羅が死んでしまったのか。ふと貧血でも起こして倒れたかのように、何事もなく倒れただけのように思えたのに…。医学部でも、もちろん医師でもない佐智に他に急に死んでしまう病気がどれくらいあるのかは、わからなかった。けれども、人は案内あっさりと現実社会からいなくなってしまうのである。そんな事だけが自分の中に残っていた。

　黒い服を着て、告別式に出ている自分がいるにも関わらず、未だに聖羅の死が信じられなかった。貢の葬式は両親が引き取った後に、すぐに実家がある長野で行われたので、同級生の中では連絡不足ということもあり、誰一人として参列することはなかった。

「大変だったみたいだね」

　聖羅の幼馴染であり、佐智とは高校の同級生であった矢口順菜が佐智に声をかけてきた。聖羅が大学で倒れた時に佐智がそばに居たとの話を誰かから聞いたのであろう、泣き腫らした目に更に涙を浮かべながら近づいてきた。

　同級生が亡くなったのは今回がはじめてである。若くして亡くなるなどということは全く考えていないことであり、事件や事故に巻き込まれない限り、そうそう起きるものではないと思っていた。しかしながらそれが現実に起きてしまった。同年代としての動揺が表情には隠せずに表れていた。

　佐智はその顔を見た瞬間、何も言葉を発せられなくなった。そして順菜の胸に思わず寄りかかるようにして体を預け、押し留めていた涙を流した。しばらくは落ち着くことはなかったが、他の同級生たちが彼女たちの背を押して、斎場から少し離れた場所に連れて行ったが、涙が収まるまでにはそれ相応の時間がかかった。

　大学のサークル仲間がちらちらと葬儀に向かったが、その際に佐智を見る者はいても佐智は相変わらず順菜の胸で伏せていた時間が長かったために気がつかずに過ぎてしまった人も多くいた。

　空はこんなに晴れているのに、なぜ自分の心の中の雲は晴れることがないのであろう。貢、聖羅と続いたことが、更に雲を厚く覆わせる原因になっていたことだけは確かであった。

「じゃあ、本当にすぐに意識がなくなったんだ」

　落ち着いた二人は、他の友人たちと別れ、二人で喫茶店に入り話を始めていた。そう簡単に悲しみがなくなる訳ではないが、佐智は泣き腫らした目でいながらも極力冷静に話をしようと思っていた。

先日亮と話したことを、考えれば考えるほど、一つの方向に導きたいという考えがあった。思い過ごしであると考えながらも、やはりどこかに終着点が欲しい。感情を整理するためにも白黒をつけたいのである。それがあからさまに間違っているという答えに行きついたとしても、自らの中でどこかを求めて考え続けていた。

「そうなんだ、先輩たちが人口呼吸とかをしたんだけど、もうほとんど手遅れで…」

　順菜の頬を、一筋の涙が走った。思えば思うほど、涙が止まらなくなるのだろう。けれども、佐智からせめて最後の状況だけでも聞きたいと思っていた順菜には、冷静に受け止めようとする思いがあった。そうでもなければ涙は一筋ではすまなかったであろう。

「でも、数日前にも先輩がなくなっていて、同じようにテレビで報道されているような変死体のような死に方だったらしいんだよね」

「先輩もなの。この間から報道されている瞬間死みたいなやつだよね」

「瞬間死って言われているの」

「数人、一緒にいた人が目の前倒れて死ぬ人がいると報道されて、瞬間死ってテレビで言っていたよ」

　亮と話した時以来、テレビをまともに見ることはなかった。ネットのニュースでさえも確認をしていなかったから、今、順菜から聞いた瞬間死という言葉に驚きを覚えたが、実際に聖羅の死を考えると、その言葉が全くもって合っているような気がしていた。突然死とも違う、本当に一瞬だったのだ。救命作業を吹き飛ばしてしまうほどの間なのだ。

「私がいけない質問をしたから、それでショックを受けたのかと一瞬考えたけど」

「何を聞いたの」

「数日前に亡くなった先輩と聖羅が、肉体関係があったのかどうかって」

　その言葉を数回頷いて聞きながら、順菜は思っていた。聖羅は佐智に対して、あまり女の顔を見せていなかったという事を、である。逆に現在進行で付き合っているからこそ言えないことがあるのだろう。順菜はそういった面では幼馴染ということもあり、何でも言い合える関係であった。

「そんなことでショックを受ける聖羅じゃないよ。結構男友達も多かったからね。浮いた話も一つや二つじゃないし」

「そうだったの」

　それを聞いた佐智の顔に動揺の色がでてきたのを見て、やはり聖羅は佐智にあまり言わない部分があったことを悟った。

「もしかして、その先輩って、板野さん」

　大学の違う順菜の口から板野の名前が出たことが驚きであった。接点は聖羅なのだろうが、どうして話がすぐにつながったのか佐智には見当もつかなかった。

「私も前に一度遊んだことがあったんだ。その時私は先に帰ったんだけど、聖羅はもう一軒行くって。終電の時間までそんなになかったから、後々聞いたら先輩とは肉体関係があるって言っていたと思う」

　そんなの当たり前、遊べる若い時に遊ばないでどうする。ある種、順菜も同じような意見であったが、今、目の前にいる佐智は女としては全くの別物、同性として見ても生娘という感じに取れなくもない。だからそれ以上突っ込んだ話をするのはやめていた。

「でも、仮に肉体関係があったからって、今回の変死のニュースみたいにつながるってことはあまりないんじゃない」

「やっぱりそこに繋がる根拠は弱いのかな」

「根拠なんてないでしょう」

　佐智にしても、順菜にしても、頭の中はもう聖羅の亡くなった話とは少しかけ離れたところにいた。自分たちの思惑と立ち位置だけの話である。順菜は肉体関係からくる説を否定したかった、自らの身において考えて話を続けた。

「そうだよ、ただ寝ただけで、しかも潜伏期間がそんなに無いなんて…、体ってすぐに悪くなるものじゃないでしょう」

　亮とも同じような話をしたが、やはりそうとらえなければならないのだろうか、佐智は他人と異なり飛躍していく自分の離れた感覚を実感した。そこには未だ貢を思う気持ちが入っているからなのか、自分では理解できなかった。

「たぶん、自分を責めているだけだよ。でもそんなに気にすることじゃないと思うよ。聖羅が死んだのはさっちゃんのせいじゃないんだから」

　順菜は慰めるようにいった。確かに自分を責めているようなところは、死に直面した瞬間から佐智にはあったのだろう。けれども何とも釈然としない自分がそこにいた。佐智自体も、なぜ自分が死因にこだわるのか、わかりかねていた。またなぜ血液説を考えるかもわからなかった。友人と憧れていた先輩だからなのか、それとも何か自分の中での違う好奇心なのか。

　三迫は返ってきた貢の血液検査の結果を確認していた。そこに異常なものは全くみられなかった。貢の保管している血液を顕微鏡で見ても何らおかしな物は見当たらなかった。

　血液感染説、それがあったとしたらすぐにでも調べてみたいと思っていたが、証拠になるものは見当たらなかった。あてがあった訳ではないが、やはりありえない話であった

　今回の変死というのは、本当に何かが原因で起こっている突然死なのかどうなのか、ただの窒息や心臓発作、脳関係のような状況が見られないという事である。その他の原因にある、消化器や肝臓、胃なども正常の状態であり、どこにも体に異常が見られないということである。

例え、たまたま大量に発生しているとはいえ、偶然に死者が出ているだけなのかもしれない。しかしながら他の病院の医師たちもそうであろうが、できる限り原因究明をしていきたいと考えるのが医学に係っている人間たちの思いであった。　

　ある種、自分たちの満足という部分がそこには潜んでいるが、それでもこれが分かった時に与える社会的影響は大きいだろう。

　取り敢えず、学童においては今回のような急死は一切ない。そして高齢者もあまり例を見ない。死亡の時間に置いては、友人などといた場合においては、急に苦しむこともなくぱったりと倒れ、そのまま心臓が停止している。症状が出ずにいきなりの理由なしの瞬間死とされている。あとは目撃などがなく、死後それほど経過していない段階で見つかったものが多数あった。

　それでもこれだけ大量に死者が出ているということは、何が原因かわからない。逆に、もう原因などという物ではないのかもしれない。けれども何かしらの問題がなければ亡くなる意味がわからない。考えれば考えるほど、謎が深まっていくように思える。推理小説であれば、このような迷宮から天才が抜け出す術を与えてくれる。しかしながら、三迫自体は天才でもなく、閃きの元に解決策が出てくる訳でもないという身の丈を充分理解しているつもりであった。

　被害が拡大しなければ良いが、何等かの原因でこのような状況が引き起こっているとしたら、やはり早期の原因究明が必要になってくるのであろう。

　とは言っても、これだけの検体がありながらも原因がつかめないものだと、実際何をして良いのか分からなくなってくる。他の司法解剖として運ばれ、原因究明が行われている病院と連携を取りながら作業を行っていくことも必要とされ、所長が今日は朝から出てしまっている。多分、他の監察医務院などの人たちと会っているのだろう。

　それによって資料が少しでも上がってくることを願うしかなかった。

　各病院の今までの症例として挙げられたものでも、症状の面では全く理由が分かっているものはなかった。

　目撃されていた人は、いきなり倒れ、そのまま病院に搬送されたりしたが、脈が戻ることなく亡くなった。外傷はどれもなく、のちに調べた血液などの状況においても、感染症や血液に関する病気が理由にあがってくることはなかった。

　年齢は主に十代後半から三十代半ばくらいまでが多く、それ以外の年齢においてはそこまで極端に多いものではないにしても六十代くらいまでの間で同じようなものではないかと思われる症例が確認されていた。

　男女の比率もそれほど変わらずに、年齢が上がれば上がるほど、男性の患者が増えているという。

　院内で行われた会議でもそれ以上の進展はなく、更に細かくこれから来る可能性がある患者と、現在解剖を行えるものに置いて、細部まで調べていくことを再認識して終わることしかできなかった。

　佐智はショックを隠せなかった。告別式から帰ってきて、聖羅が死んだことももちろんであるが、順菜から聞いた、聖羅の男性遍歴というか、知らなかった側面があることに衝撃を受けていた。

　しかし、未だに何か男女という関係がそこに存在するのではないかと考えると、やはり血液感染や何かしら接触という肉体関係というものが気になって仕方がなかった。他の男性遍歴の中で、聖羅との接触があった人がもしもいたならば、その人も死に追いやられている人がいるかもしれない。ふと思いたって卒業アルバムを見た。高校時代に聖羅と付き合っていた人を思い出したのである。かといってその人にいきなり連絡をするわけにもいかない。

　確か聖羅の中学の同級生でもあったから、やはり同級生に当たる順菜に話を通して頼もうとしていた。けれども今日の今日で順菜にこのようなお願いをしても良いのか、佐智は迷っていた。

　　　　　　　（二）

「奈緒が電話に出ないんですけど」

　新宿のある風俗店で、受付にいた男が内線電話をかけた。電話の向こうにいるはずの風俗嬢がでないと客の対応をして帰ってきた店長に話しかけていた。

「もしかしたら寝ているのかもしれないから起こしてこいよ」

　店長は男に命じて部屋へと向かわせた。今日はまだ客についていない、出勤したばかりの風俗嬢であった。店ではそれなりに人気があり、すでに電話予約による指名が奈緒には入っている。その時間を告げようとしていたのだが、内線電話が通じないという。いつも内線電話で伝えるのは、部屋の中でのプライベートを少しでも認めようとしているからであった。だからいつもと違い直接部屋に顔を出すという面倒に対して嫌な顔をしながら従業員の男は奈緒の部屋へと向かった。

「奈緒さん」

　数回ノックをしたが返事がない。準備中の部屋に入る事が無い訳ではないが電話で済むことを部屋まできた面倒さが上回っていた。しかし場合によっては勝手に入ったと、後々文句を言われることも少なくはない。それでも仕事だと割り切って男は「失礼します」と一言だけ言って扉を開けた。

「ちょっと」

　男は寝ているのかと思っていた奈緒が、ベッドの上ではなく、床にそのまま倒れていることに驚いて近づいた。そして奈緒の体をさすって起こそうとするが、返答がない。それどころか生命反応が感じられない。もちろん言葉を発して答える様子もない。驚愕した男は急いで部屋に備え付けられた電話の受話器を取った。内線を受けた店長がすぐに部屋へと入って奈緒を確認したが、事切れていることしか理解できなかった。

　ある家庭では、昼過ぎに買い物から帰ってきた母親が呼んでも出てこないと、高校生の娘が両親の部屋に入った。そこで倒れている母親を発見したという。すぐに救急車を呼ぶが、もう心臓はその時点で停止していたという。　

　同じような事件が未だに連続しておこっている。何が原因か、未だにつかめていないが、運ばれてきたばかりの死体の血液を、三迫は採取して顕微鏡で見た。この死体は折原の連絡によってすぐさま運ばれてきたものである。現場の検証も同じような光景であるためにすぐに終了し、しかも両親の元にあったために、解剖の許可もその場で承諾してもらったという。

　他の職員と話し合い、搬送中にできる限り一気に解剖をしたいとのことで、数人で分かれて取り掛かることを決めた。その中で三迫は血液の採取にあたった。

　高性能の顕微鏡を使い血液を調べていく。それとは別個で血液の成分を調べる作業を行っている。

　三迫が見始めてから、一つのサンプルが終わったが、もう一つのサンプルを確認しはじめた時であった。今までのみたことの無い物質が見つかった。これがどのように影響を及ぼすものかわからないが、一つの発見であることは確かであった。

「誰か血液に詳しい人はいませんか」

　三迫は大きな声をあげた。みんな黙々と作業を続けていたために、数人の医師が振り向く。そして三迫のそばへと近寄る者が数名いた。

「何か見つかったのか」

　異変に気付いて所長がすぐに飛んでくる。緊迫した空気が流れてくる。そのやり取りを見て院内があわただしくなってきた。血液が関係しているかもしれないということで、関連する臓器を徹底的に調べ始めた。

「どうですか、血液の中に少し、妙な物質が」

「確かに、数は少ないが見慣れない物質があるな」

　所長以外の数人が確認をする。確かに見慣れない物質があるという血液に詳しい数人の全ての見解であった。

「みんな血液に関連する箇所を調べてくれ」

　所長の声に素直に「はい」と返事をするが、もうすでに数名の監察医たちはその作業に取り掛かっていた。数日間、休むという事を知らずに走ってきたが、原因が見つかりそうだと分かった時に、みんなの集中力は、疲れや睡魔を凌駕して高まった。この一瞬にすべてをかけるかのように、調べあげられていく。これで原因が究明できるかできないかで、今回の突然死が治まるかもしれないのである。

　そして心臓を担当していた者が、組織の一部に同じような血液がついていることを発見した。しかしながら、この物質が心臓にどのような影響を与えているか、物質の性質が分からない限りは先に進むことはできない。けれども一つの原因が解き明かされようとしていた。

　見つかった物質が混入している血液が他の部位に付着しているかどうか、細かく解剖は進められていく。

　それと共に血液から採取したサンプルの物質をマウスや培養細胞に入れていく。これで増殖ができればウイルスや細菌ということになる。そして次回からどのように抗体を作っていくかが考えられていくが、それはまだまだ先の話になるのだろう。

「三迫、良くやった。まだまだ先は長いかもしれないが、これで第一歩を踏み出せた」

　所長は三迫の肩を軽く叩いた。先日、何となく微睡んでいた喫茶店で、現実と夢との狭間で聞いた血液感染説が有利に動くとは思ってもいなかった。その話をどんな人物がしていかはわからないが、いつか会う事ができるならばお礼どころかではないが、何かををしたい気分であった。

「所長来てください」

　マウスを確認していた一人の男が所長を呼んだ。本来であれば監察医務院は原因究明のみを行うが、今回の早期発見の患者から何かが見つかるかもしれないと、急遽研究機関から培養などを担当する班が駆けつけていた。

　所長以下、数名が駆けつけると、もうマウスは動かなくなっていた。心臓が停止しているのである。数時間と経過していないだろう。それでもこのような状態になってしまったのは、人間との個体差を考えても職員たちは驚きを隠せなかった。その進行が本当にこの速度であったならば、人間に置き換えても、感染から数日の間に発症する可能性は大であろう。

　一九七六年に発見されたエボラ出血熱の潜伏期間である約７日に似ているものになる。しかしエボラは高熱、そして消化器、鼻などから激しく出血をするが、今回のものは出血どころか、死者に痛みや兆候などの一切の症状が出ていない。それゆえに誰が感染しているかわからずにいるために感染者を隔離することができないのである。

「今までも解剖などにおいて感染症などに気を付けていたと思うが、レベルを上げるぞ。レベル４だ。みんな体のすべてを覆うように、体に傷などを負っている者は直ちに消毒、場合によっては作業から離れてくれ。できる限りの防護をして臨もう」

　所長は一度持ち場を離れて、全ての者に細心の注意を払うように声をかけ、着替えることにした。そして前回集まった行政解剖の所長たち全てに連絡を取ることにした。血液だと分かった以上、他の病院にしても院内感染は防がなければならない。ましてやエボラ出血熱級のレベルである。しかも感染しているかどうかすらわからずに亡くなっていくのである。ある意味ではエボラすら超えてしまっているのである。

　作業は慎重を極めた。

司法解剖を請け負っている病院も感染レベルを今まで以上に上げ、隔離した検査室を作りはじめた。

　まずは体の消毒をし、傷を負っている者などにおいてはその部分に絶対に血液が付着しないようにした。場合によっては作業から外れ、更に白衣などの衣服ではなく分厚い防護服を着用することにした。手袋もメスなどを使用するために多少動かしにくいが厚手のものをできる限り装着する。もちろん口や鼻などから血液が入ることも考えられるために、空手などの防具のように顔をすっぽりと覆うものを着用する。エボラは目に血が入るだけでも感染をしたという話があるくらいなので、それをする必要は充分にあった。首などもでないようなところは、空手のものとは異なるが、兎に角体に血液が付着しないようにすることが必須であった。

　外部遮断をした部屋の中で、監察医だけでなく、研究班すべての人々に緊張が走っていく。一歩間違えば自らの命にかかわる。誰も死にたいとは思わない。それは生を受けている全ての動物においてもちろんのことであった。一つだけ異なるとしたら、人間の自ら死を選ぶという者だけであったろう。

　あとは一般人たちへどのようにして警告を促すかである。これは監察医務院、司法解剖を行う法医学の病院でだけで決めることはできない。国を全て巻き込む大きな問題であり、場合によっては国際問題にまで発展してしまう。迅速でありながらも慎重を規すことになるのだ。

　まず所長は日本感染症学会へと連絡を入れ、厚生労働省へと向かうことを決めた。

「杉並君、すまないが厚生労働省の次官に面会できないか連絡を取ってくれ。できれば大臣も一緒にだ。一刻を有する事態だと…。とりあえず私はこの間の会議を行った時のリーダーになっている山下先生と一緒に霞が関に先に向かっているから、連絡がつき次第電話してくれ」

　石黒所長は事務員の杉並に話をすると、すぐに着替えをはじめた。

監察医務院の中では先ほどのマウスの心臓が怪しい、それは先に人の解剖を行っている時に心臓に原因物質がついているという報告があったから、いの一番に疑う場所は特定できてた。

　防護服などの用意に時間が手間取り、マウスの体は冷え切ってきている。そのマウスの心臓を調べたところ、先ほどの人のような原因物質とみられるものは一切なかった。数時間で消えるなど、ありえなかった。

「そんな莫迦な」

　それを考えて先ほどの人の心臓から取り出した細胞に付着していたとみられる原因物質を今一度調べようとした。しっかりと印をつけておいたから問題はないとみられていたが、その物質までもが消え去っていたのである。

　体温を調べると三〇度以下になっていた。冷房の効いた部屋と、細かく小分けした体が細胞の温度を下げていたものとみられた。しかしながら、原因物質が消えていくなどという話は聞いたことがない。これを死滅と考えるのならば、三〇度以下で死滅する可能性があることになる。

　そこで仮説が生まれた。

人間の体温は三六度程度である。もしも３０度以下で死滅する物質であれば、人の体温を三〇度まで下げれば防げることになる。しかしながら、そんなことをできるはずがないことは当たり前の感覚である。

人間の体温が３０度になった時には無感覚になり、２７〜２８度で凍死する可能性がでてくる。そんな危険を冒して果たして身体が平気ななずがない。ＨＩＶウイルスは八〇度で一分間加熱すれば死滅するらしいが、そんなことができないことと同じであろう。

　逆に温度が下がれば死滅してしまうということは、温度を保たなければ血中の物質はなくなる。それに対する特効薬を作るには、相当の時間を要することになるので、温度を保ちながら作業をしなければならない。

　普段の状態でも人が仕事をするのに最適な温度は２０度から２８度とされているのである。それを超える温度を保つ中で作業をやるということは、それ相応の負担が肉体にも精神にも絡んでくることである。

　なおかつ防護服を着た職員たちが、三〇度を超える部屋の中で長時間働けるわけもなく、またその中で特効薬を開発するなど、厳しい作業になることは、少し考えただけでもわかりきったことである。

　そこまで見た上で監察医務院を出た石黒は、この事態を踏まえた上で、どのような処理を厚生大臣、次官などと話をするかを問題視していた。まずは一緒に向かう山下と密に連絡を取りながらやらなければならないと考えていた。

　　　　　　　（三）

　三迫が務める監察医務院の所長である石黒晴彦は霞が関へと着いた。アスファルトの照り返しが、車を降りた体に響くようであった。だが、それを考えている暇は全くなかった。

同じく急いできていた山下と正面で待ち合わせ、駆けるように省庁の中へと入っていく。すぐに受付で待ち合わせであることを告げ、案内された部屋へと飛び込むように入っていく。事務次官、大臣が来るまでの間で手短に山下に要領良く、要点だけを話していく。山下も多少出てくる前に話をかじっていたために理解は早かった。

「お待ちしておりました。今回の変死のことですよね、何かわかりましたか」

　二人に遅れるように入ってきた坂口厚生大臣は、対面した席へと座っている二人に軽く会釈をして、会議テーブルの中央の座にすらりとした体躯を大柄に見せるように腰を下ろした。それに続くように斎藤事務次官も席へと着いた。

「大変なことになっています。ぜひとも早急な措置を取っていただきたいと思い、車を走らせてまいりました」

　席に着くなり慌ただしく山下が声を上げた。

「どうしたんですか、何を早急に急ぐ必要があるのでしょうか」

「今回は血液感染の可能性が高く、致死率もほぼ１００％のようです。日本版エボラとでも申したいのですが、私たちが調べた結果では、症状がでないので、感染者を特定することができずに、大変な作業になります」

　斉藤は眉をひそめ、頭の中で回路を動かした。血液感染の可能性があり、患者の特定ができないのであれば、場合によっては献血の血液まで一度止めなければならない可能性がある。しかも症状が出ていないということは、献血をする人たちまで確認して行わなければならないために、事実上の献血を止めなければならないかもしれない。

「ちょっと話が速すぎるようです。もう少しわかるように説明していただけますか」　

　坂口はそこまでの危機感を読み取れていないようで、二人の会話を持て余すように、そしてそれを今一度砕いて説明するように要求してきたのである。自らの頭の中で状況を理解している山下、石黒は歯がゆい思いをせずにはいられなかったが、専門外の人間にはすぐに理解できる問題ではなかった。

「今、山下さんがおっしゃったように、感染者が特定できない状況での血液感染説ですので、食中毒の健康保菌者のような状態の人がいるということです。けれども健康保菌者であれば、それほどの害は少ないのですが、今回の致死率はほぼ１００％です。特定ができないという可能性が高いので、大変な確率で感染が拡大することになります」

　石黒ははっきりとした語調で、聞き取りやすく説明をしていく。感情的な説明ほど理解を苦しませ、措置が遅れることを懸念したからである。

「で、早急な措置とはどのようなことをするのが効果的なのでしょうか」

　坂口は今一掴めていない頭で、形式的に話を進めようとした。それ自体は間違いではないように思えた。

「まずは国民にすべてを公表するところからでしょう。血液感染ですから、性感染も含めて注意を促すべきでしょう」

「今回のウイルス、もしくは細菌と呼ぶべきものは、潜伏期間が異常に短く、血液感染さえしなければ現在感染している人のみで被害を食い止めることは可能なはずです。早急の発表をしていただければ」

　二人の医学者たちは、次々に坂口に対して要求をしていく。

「確実なデータは取れているのでしょうか」

「今日ウイルスは見つかったばかりです。しかしながら今日死亡した患者の血液、そしてそれが心臓を蝕んで死にいたらしめたのはほぼ確定しております」

「ほぼでは困るんだ、確証が持てない限り、国民をあおるだけの発表は避けたい」

　坂口はそう言い切った。しかも自分ひとりで決められる問題ではなく、さもすれば国際問題にまで発展する可能性がある。もしも日本に渡航した一人でも同じウイルスで死んだ場合に日本に向けられる目は厳しくなるはずである。だからこそ大臣一人の意見では決定はできずに、総理大臣や閣僚と共に話をしなればならないと考え、すぐに山下たちの意見を聞き入れるつもりはなかった。

　山下や石黒からしたら、今すぐにでも公表すべきだと考えていた。一部の不利益が出る場合もあるであろうが、まずは感染を止め、感染者には申し訳ないが、一週間、二週間、さもすれば一か月の冷却期間をおけばウイルス自体が無に帰す可能性があると考えていた。

「お願いします。なにとぞ、絶対に誤報にはならないはずです」

　二人は頭を下げた。

「もう少ししっかりとした確証が得られたら、その時今一度話をお持ちください。私はこれから予定があるのでこれで失礼いたします」

　二人の顔があがる前に坂口は一言言うとそのまま立ち上がっていった。斉藤は仕方なく大臣の出ていく後ろ姿を眺めていた。

「現段階では、今の大臣の意見に従うしかありません。しかし国民のためを思えばこそお二人の意見は尊重すべきだと考えております。私から今一度大臣と話をしてみます。たぶん閣僚会議を持って決めることになる大きな問題でしょうから、明言を避けられたのだと思います。お二人にはもう少し詳細な資料をお持ちいただき、早急に発表できるように準備していただけますでしょうか」

　斉藤は、自分たちがいかに仕事をやらなければならないかを考えていた。自分たちが国民のためになるように、日夜考えながらやっているつもりである。今回も、それをやることが国家公務員としての義務であると考えていた。確かに、キャリアと呼ばれる第一種の公務員たちの中で、保身に走る人も少なくはないだろうが、自分たちは、耳にしてしまった事実を伏せることはできない。その思いのまま、言葉を切ると会議室から出て行ってしまった。

「山下さん、斉藤さんは信用しても良いのでしょうか」

「まぁ、彼は数少ない信用できる、そして仕事のできる官僚でしょう。あと大臣の説得は彼に任せるしかないと思います」

「そうですか、では我々は彼を後押しできる資料を作る以外はないのでしょうね」

「そうなるでしょう」

　二人は無念な思いをおくびもせずに顔に出した。自分たちの無念さ、無力さでいっぱいであった。しかし追撃はこれからである。主張を通すの、理屈や理論を通すのが研究者たちの唯一の方法である。後は、自分たちと同じ気持ちを持った同志たちと共にやっていくことが大切なのである。

　　　　　　（四）

　佐智の携帯電話が鳴りだしたのは、昼の抜けるような空が真っ暗になってからであった。ディスプレイには順菜の表示が出ている。連絡を取ることも考えたが、やはりしばらく置いてからと思っていた相手からだけに、佐智はどのような話を、答えをしたらよいのか考えようとしたが、まずは出ることにした。

「さっちゃん、また一人、知り合いが亡くなったの。私、怖くなって」

　すすり泣くような順菜の声に、佐智は思わず何がどのようになっているのか分からなかった。

「どうしたの、とりあえず落ち着いて」

「聖羅とちょっと前に遊んだの。その時に一緒にいた男性と思わず酔った勢いで寝たんだ」

　佐智の頭は混乱していた。告別式の時に順菜から聖羅の男性遍歴に近いものを聞かされて頭が混乱したのもあったが、それよりも強烈に脳裏に刻まれていく感覚があった。同じことをやっている仲間であったから、聖羅は順菜に色々な話をしていたのではないかと勘ぐってしまう。

　それは兎に角、血液感染などという話をしたからであろうか、どこかで繋がっているとしたら、聖羅から派生した血液が男性を通して自らに刻まれているのではないかと恐怖しているのであろう。しかもその男性が死んだとなれば、なおさらである。

「ちょっと、とりあえずそっちに行くから」    

　佐智は家を飛び出すようにして、自宅の車を走らせた。得体のしれない恐怖に侵されている順菜の姿が目に浮かんで仕方がなかった。心配事がある時には誰かに話しを聞いてもらいたいものである。その気持ちは痛いほど理解できた。

　順菜は指定された場所に缶ジュースを持って待っていた。わざわざ来てもらった手前、何かを用意しなければと考えたのだろう。しかしながら、その手は小刻みに震えているようであった。

「で、そのホテルに行った男の人が今度は亡くなったの」

「そうなの、かなり遊んでいるようだったから、多分聖羅とも関係があったんだと思うの。で、さっちゃんが言っていたように血液感染の可能性が高いとしたら今度は私かもって…。そう考えたら怖くなってきちゃって」

　缶ジュースを両手で不安を隠すように、握りしめて持ちながら話をする順菜は完全に恐怖に支配されているように思えた。顔色が血の気を帯びているように見えなかったのも、そのせいであろう。私があんな話をしなければ純菜が考えて苦しむことはなかったかもしれない。佐智は少しだけ自分の罪を感じた。

「でも、潜伏期間とかを考えたらどうなるかわからないじゃない。とりあえず検査をしてみるのもいいのかもしれない」

「いきなり行って血液検査って、どうなんだろう。しかもまだ見つかってないウイルスとかだとしたら」

　確かに潜伏期間もそうだが、どのようなウイルスなのか、そしてそれが及ぼす影響やらなんやらというのは、医師ではない佐智ではもちろんわかるはずがなかった。実際に公表すらされていない佐智の仮説なのである。

　そしてそれをどのように調べたら良いのか、そんな時に、もう一人、聖羅の死の際に一緒にいて、なおかつ貢の死を見ている人間がいることに気がついた。

亮である。                                                               

しかし亮には血液感染の話は否定されている。けれどもこのように性的なつながりがあった人たちが次々と亡くなっていることを考えると、やはり血液感染、もしくはそこから来る何かしらの恐れがないとは言えないのではないかと、素人考えでありながらも佐智は思わざるを得なかった。

　自らの持論であるから余計にそれを肯定したいという気持ちはある。しかしながら、あまりにも身近すぎる人たちの死に、それを考えざるを得ない。

　順菜が恐怖から逃れられるように車を走らせた。

そして亮へと電話を掛けた。

　ほどなくして亮は電話に出た。車で向えば夜の時間帯ということもあり、それほどかからずに亮の元へとたどり着くことができるはずである。亮に直接会い、場合によっては血液感染を確実に否定してもらえればと思った。そうすれば順菜の恐怖は一旦落ち着くはずである。

　緊迫した電話の向こう側の佐智の声を聞いて、亮は快く二人に会うことを承諾してくれ、深夜にやっている喫茶店で会うことになった。

「そっか、この間話していた血液感染説か、確かにあり得る話になってきたな」

　否定してもらおうと思った佐智の思惑は、すぐに崩れてしまった。亮も事件などのニュースが多くなり、考えている中で、そのような答えが無くもないと思っていたのだろう。ただそれは雲をつかむような話であり、科学的根拠のない空想の話の域を超えることは勿論できなかった。

「けれども、どのような血液感染か、潜伏期間がどのくらいなのかもわかっていない。一応避妊をしていれば避けられる可能性は高いだろう。ＨＩＶウイルスもコンドームなどでかなりの確率で感染が防げるはずだからな。男同志のＨＩＶの感染が多いのは、妊娠の可能性がないからほとんどが避妊をしない。だから場合によっては今回の血液感染が成立すると、同性愛者が感染して場合によっては加速度的に増える可能性があるだろう」

「でも、未だにそのようなニュースが報道されていないということは、血液感染の可能性が低いということですか」

「さあ、どのような形で報道されているかわからないからな。同性愛という話を出す必要がないのか、それとも確認が取れていないかもしれない」

「じゃあ、どちらにしろ、血液感染説の可能性がない訳ではないということですよね」

　順菜は自分の事実を確認するように、静かに言葉をだした。

「確かに俺たちの手にはおえない、ただ現状を見ているしか他にないのだから」

　亮の言葉に順菜は不安をさらに強めた。しかし、相手の男がウイルスを保菌していたかどうかわからないのである。せめて先ほどの話で出たように、避妊という行為をしていてくれたことを祈るだけであった。順菜は酔っているから、避妊がされていたかどうか定かではないという話であった。

　亮はコーヒーをすすりながら、思わず思い出したかのうように声を上げた。

「そういえば、貢と砂原が関係を持ったとしたら、死ぬ３日前くらいの話だろう。もしも血液感染だとしたら、相当潜伏期間は短いことになる」

「この間もそんな話をしていましたね」

「関係があったならいざ知らず、そうでなければ潜伏期間がどのくらい長いかが問題かもしれないが、その期間を過ぎているとしたら、君の感染は無い可能性があるだろう」

「でも、こんなに潜伏期間が短いウイルスがあるんでしょうか」

「俺も最初は思っていたが、無ければ血液感染説を否定すればいい。しばらくは怖いかもしれないが、逆に言えばもうしばらくかもしれない。自宅でじっとしているのはつらいだろうが、なるべく人と関わりを持つことを避けるべきかもしれない。食中毒の感覚でいれば、１週間もすれば大丈夫なんじゃないかな」

「ちょうど１週間くらいかもしれないです」

「そういえばエボラ出血熱の潜伏期間がそのくらいだったかな」

　亮は鞄から携帯よりも大きいが、パソコンのよりも小さな小型の通信機器を取り出し、そこら中に飛んでいる電波を捕まえた。エボラは潜伏期間が１週間程度で、その間に死亡したりする。エボラであれば発熱などをして血を吐くようにして死んでいくが、貢にしても聖羅にしてもそのような死に方はしなかった。それどころか、眠るようにして死んでいった。まるで終わりの瞬間を自らが感じたりしないようにして…。

「でも、潜伏期間が短いとしたら、どうしよう」

　その瞬間であった。体中の力があっという間に抜けるようにして順菜が倒れた。座っていた椅子から崩れ落ちるようにしてである。次の瞬間大きな物音がたった。その音と共に佐智の悲鳴のような叫びが聞こえた。亮はすぐに立ち上がり順菜を抱き起す。

近くにいた客が急いで近づいてきた。前に喫茶店で亮と話した時に寝ていた客に類似している。店員も恐る恐る近づいてくる。ここ最近ある突然死であったとしたらどうしようという表情であった。

血液感染でなく、空気感染であれば、この店にいる人間にどのように影響があるかわからない。もしくは自分までも巻き込まれるかもしれない。そんな表情をしているが、他の客もいる中でそれを言葉にはできなかったのだろう。

「どうした」

「いや急に椅子から倒れて」

　亮が順菜を抱き起しながら説明をする。駆けつけてきた男は順菜の状態を見た。呼吸をしている様子が見えない。胸が上下することもなく、止まっている。手の脈をみるが同じように血液が流れている気配がない。もしかすると新種かもしれない。そう考えると迂闊に人工呼吸もできない。いや、血液感染説であるから、唾液で感染することはない、それでも歯茎など、どのから出血しているかはわからない。どこから感染しているか分からない恐怖が、尚更、その行為を躊躇させた。一度口を広げ、出血や口内炎などの症状がないか確認をしてみる。特にないことが確認できるが、なるべくなら避けるべきだと三迫は思い、心臓マッサージを始めた。

　しかし心臓が動き出す気配はなかった。

「心臓マッサージだけでもいい、変われるか」

　三迫は順菜から目を離さずに亮に問いかけた。

「はい」

　亮が答えると男は順菜の体から離れた。入れ替わるようにして亮が胸の間あたりから少し下の部分に手を当てて、上下運動を始めた。

「人口呼吸は避けてくれ、心臓マッサージだけでいい。君は店員にＡＥＤがあるか聞いてきてくれ」

　そばにいる佐智にも適格な指示を出し、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

三迫はこの女性がサンプルになるかどうかは分からないが、監察医務院に近い病院を選び連絡をしていく。最悪の場合、早期の解剖を認めてもらい、いち早く調べあげることが、国民の利益につながる。死に方を見る限り今回の血液感染である可能性が高いから、ＡＥＤを取りに向かわせたが必要がないかもしれないと頭の中で考えた。

　心臓マッサージを続ける亮の額に汗がにじみでている。弱くては意味がなく、思った以上に必死に行うと重労働なものである。それでも亮は自分の体力をそぎ落としてもマッサージを続けなければならないことを知っていた。

「三迫です、至急救急車を一台回してもらえませんか。場所は…」

　レジまで歩き、店の住所の書かれているチラシのようなものを手に取り伝えていく。ＡＥＤがないらしく、佐智は手ぶらのまま、悲壮な顔をして戻ってきた。

　三迫は連絡が終わると亮と変わった。とりあえず、心臓が蘇るかどうか。命が消えないようにと動いた。

　救急車はそれほどかからずに到着したが、その間に順菜の心臓が再び動くことはなかった。

「心肺停止状態だ、急いで搬送してほしい。病院はさっき告げた通りだ」

　三迫は自らの荷物をまとめると亮と佐智にも同乗するように言った。二人は急いで自分たちの荷物を取り救急車へと向かった。

　三迫はあっけに取られている店員に数枚の千円札を手渡し「これであの子たちの分も頼む」と言い、救急車へと乗り込んだ。

　亮と佐智の頭の中に聖羅が倒れた時の状況が浮かんだ。同じような状況を考えると辛く思えてくるが、今は何も言えずにただ唇を噛みしめて救急車に同乗することしかできなかった。その間に三迫は救命士と一緒に何かしらの策を講じようとして手を尽くしていくが、病院に着くまでに順菜の心音が再び聞こえることはなかった。

「とりあえず状態の確認をしてくれ、さっき救命士にも言ったけれども血液感染の可能性があるから、必ず気を付けるようにしてくれ」

　三迫は指示を出してから亮と佐智の元へと歩み寄ってきた。

「すまないがあの子の両親に連絡を取らせてくれ」        

「順菜はどうなのですか」

「もしかすると今流行している変死かもしれない。兎に角親御さんに連絡を取らせてもらいたいんだ。」

　佐智は眼を閉じた。色々なことが一気に頭の中に入り、現状を受け入れることができずに混乱していた。そんな佐智に亮は告げた。

「横山、とりあえずこの人がいきなり連絡してもわからないだろうからお前が連絡してやったほうがいいだろう」

「でも亮先輩、この状況で何て言ったらいいのか」

　佐智は目に涙を浮かべて悲痛な表情で言った。確かに佐智の気持ちを考えたら亮にしても残酷なことを言っていると思える。しかしながら、これが今回の変死の一遍であるならばそれを告げてあげることは必要だと思えた。

「今、彼女の事を一番考えてあげられるとしたらお前しかいないだろう」

　亮の問い詰めるような、それでも気持ちを理解しているような目で見つめられると佐智もその行動が正しいと思えるようになってきた。鞄から携帯電話を取り、順菜の家へと連絡をする。

「もしもし横山ですが夜分遅くに申し訳ないです」

　そのあとの言葉がすぐに出てこない。何をどのように説明したらよいのか、頭の中が真っ白になっていた。その携帯電話を三迫が渡すように要求してきた。どうしたら良いのかわからなくなっている佐智はその手の中に電波発信機を渡した。

「すみません、お宅の娘さんですが、先ほど倒れられて病院に搬送されました。私はたまたまその場に居合わせた医者ですが、もしかするとこのところ起きている変死の可能性が高いです」

　矢継ぎ早にそこまでの事実を話すと三迫は相手の反応を探った。衝撃を受けないはずがない。その上で、どこまで自分の要求が聞き入れられるのか、その数秒の間に頭の中を整理して、次の言葉を作った。

「そうです、倒れてから病院に搬送されるまでの間に一度も心臓は動いていません。たぶん助かる見込みはほぼ無いと思われます」

　受話器の向こう側から、母親と思われる女性の困惑した声にならない声が三迫にはわかるようであった。自分が言っていることが、親にとって残酷な言葉であることも理解している。茫然となるのは当然の反応とみられるが、ここで感傷に浸っている場合ではない。親には申し訳ないが、三迫にとっては今後の日本の在り方に大きな影響がある問題であった。

「大変申し訳ないのですが、娘さんを司法解剖に回させてもらってもよろしいでしょうか、今回の変死において血液感染の可能性が高くなっています。娘さんの状況を調べることで多くの人のこれからの命が救えるかもしれないのです。急で申し訳ないのですが、ご了承いただけないでしょうか」

　一気に話を進め、三迫は一呼吸置いた。

その一呼吸の間に答えがくることは勿論ないであろう。そして死んだ娘の肉体を切り刻み、臓器を取り出すことを承諾してもらうことは、肉親にとっては英断に違いない。自分の娘が無傷で棺桶に入ることと、傷がついた状態で入ることを考えた時に、後者を嫌がる人は数多くいるのを知っているからである。

　亮と佐智はそこで自分たちが疑っていた血液感染説が、現実にあることを初めて知った。それと共に現在一緒にいる三迫という男が監察医であり、未だに発表されていない血液感染説を述べているということも…。自分たちが勝手に憶測したことが現実になることを嬉しいではなく、ある意味なかったことにして欲しい気持ちでもあった。

「本当ですか、大変申し訳ないですが、至急解剖に回せていただきます。監察医として心より感謝いたします」

　三迫は深い悲しみの中で決心してくれた見えもしない両親に深々と頭を下げた。携帯電話を佐智に返して、すぐに処置室へと向かっていった。

　これからの自分たちの戦い方次第で、日本国民のどのくらいの人数が救えるかわからないけれども順菜の親の気持ちを聞いた心は、真っ直ぐと向かう道標を作った。

　自分たちが向き合わなければならない現実と、未来に向かって…。

第三話　　　（一）

　順菜の解剖がはじまって早くも十時間以上が経過しようとしていた。亮と佐智は監察医務院へと付添い、椅子の上で夜を明かした。

　その間にも三迫たちは血液の解明に取り掛かっていた。しかし、前回分かったように、心臓の細胞に絡みついた血液がただ単に心筋を止めているくらいしかわかることはなかったが、死後それほどの時間が経っていない順菜の心臓には、依然見たものとはくらべものにならないくらいに血液中から見つかった物質が多く溜まっていた。

　また体温の調整をしている手前、物質が減っていく状況までが少しずつではあるが確認できた。

　血液感染の物質は、その間にも猛威を振るうようになってきた。三〇度以下になるとほぼ消滅する。まず輸血からは感染しないことが確証された。それは輸血の血液はほとんどが二〇度以下で保存されていることから、その結論に行きついた。

　他の感染経路としては医療行為の上の、外傷による目や傷口などに触れるなどのもの、性行為などによる感染などである。場合によって母乳による感染が起こるかどうかなどが解明できずに問題視されるくらいであろう。ただ乳幼児の変死は確認されていないので、無いと考えたいが、確定できる問題ではなかった。

　昨日、山下と石黒が厚生労働省に話を持って行ったが、そこからどのくらいで国民に発信されるかが問題になってきていた。三迫が持ってきたデータをもってしても一例であり、大臣が納得するかどうかはわからなかった。ただ確かに存在することが証明されたのである。

「君たち、すまなかったね」

　三迫は一睡もしていない黒ずんだ目元のまま亮と佐智の前へと現れた。防護服を着て、高温の部屋の中での作業は彼の体力を削ぎ落としていた。それでも使命感から三迫は無理にでも純菜の遺体を持って調べたかった。

「とんでもないです。しかし、私たちが血液感染の疑いがあるかもしれないと予測していたことが身近で起こるなんて考えてもいませんでした」

　佐智が血液感染説を言った。思っていた事、亮に肯定して欲しかったことであるが、現実になってみると、それが起きないでほしかった気持ちの方が大きかった。

その時に三迫は何か感じるものがあった。

「もしかして、数日前に君たちは池袋の喫茶店でそんな話をしていなかったかい」

「していましたけど」

　亮が答えた。あの時、同じ喫茶店にいた子たちであると、三迫はその言葉で確信を持った。そして、今回再び出会ったことに、運命を感じざるを得なかった。しかも変死の感染遺体までも引き合わせるとは、皮肉な事であった。

「たぶん同じ時間に俺もいたんだ。そこで血液感染という話を聞いて、それで血液を調べることを始めた。確かに最初にも調べたんだが、その後の検査で三〇度以下の温度になると原因物質が死滅ではなく消滅することがわかった。だから初めの頃には結果が分からなかったんだ」

　亮も佐智もその話を聞いて、偶然の中にある必然という言葉を見つけた。その場に行かなければ三迫に出会うこともなかったし、自分たちの行動が偶然を引き起こすことを考えたら、それはもう必然と言わざるを得なかった。世の中の偶然の大半はこのような必然によってもたらされているのである。

「今回、たまたま友達が俺の前で倒れたのもびっくりした。何か、運命的なものを感じるが、これは世の中に対して、俺がやらなければならない事を示されているような気がしてならない」

「ぜひとも、僕たちとの出会いによって得たものを、僕たちの友人に成り代わって何とかしてもらいたいです」

　亮は肩を震わせていった。佐智はいつも冷静で何となく分析をして自分なりの回答をひょうひょうと導き出す亮とは違うことを感じた。やはり学生と社会人では何かが違い、たとえ同じ年であったとしても、そこには深く離れた溝のようなものができていることを感じた。それと共に自らの無力さをそこに重ねているから、余計に亮はいつものように冷静ではなかったのであろう。

「そうだね、どのような形であれ、俺たちは今回の事態が収拾できるように努めるよ」　

　その言葉をこれから再び、石黒たちが実践するためにどのような資料を提供するかが自分たちに課せられたものであると三迫は思っていた。

　それは石黒も山下も同じく、政府をどのように動かしていくかが問題となっていた。

　先日会った坂口厚生大臣と斉藤事務次官との話では当面何も動く気配がなかったが、今、これから先に問題となる血液が抑えられないとどのような事態が引き起こされるかわからなかった。

　多くの人たちの命が亡くなっていく。消えていく。その事態は誰も知らない中で、刻一刻と進んで行った。

「そういえば、あの喫茶店で君の生徒手帳を見つけたんだ。連絡して渡そうと思っていたのだが、最近忙しくてできなかったんだ。今持ってくるから」

　三迫はそれだけを言うと更衣室に行き鞄の中にある佐智の生徒手帳を取りに歩いていった。

　あちこちで人が死に始めたことを確認しはじめたのは、佐智と亮が三迫にあった数日後であった。医師が亡くなった例は早くから血液感染説が関係者に伝わっていたために、なかったが、処置をした看護師数名が血液感染を通して亡くなったという話が数件でていた。中には病棟の入院患者がなくなり、そこを担当していた看護師が亡くなったということもあった。

　ただ首都圏のみで収まっているうちはまだ良かった。

　出張で首都圏に来ていた数名が地元に帰ってから亡くなった。そしてその家族へと血液を介して原因物質は飛び火していった。空港で外国人が同じような例で亡くなっていることも判明した。血液をすぐに採取して調べた結果、同じような物質が発見された。

　これを受けて石黒と山下は再び厚生労働省へと足を運んだ。

「例の血液感染説はどのようになっていますか」

　穏やかでない表情の坂口の横で斉藤は二人を問い詰めた。話に言っているのに問い詰められるとは、やはり官僚特有の感覚なのだろう。そんな言い方をしなくてもこっちは答える気は満々であったのだから…。だが、よく考えると官僚という問題ではなく、誰もが話を早く進めたがるために、同じように質問をしてくるのだろう。

「簡単なことです。もうここまで来てしまったからにはしっかりと報道して国民に伝えるべきでしょう」

「しかし、混乱が生じます。どのような対策を取るべきか、それは分かったのですか」

「前回も申し上げた通り、血液感染説がほぼ確定しております。ですからそのルートを押さえていただければ」

「どのくらいの間、もしくはずっとという話でしたらそれは無理な話でしょう」

「だいたい潜伏期間が１週間から１０日くらいと思われます。その間に血液感染するような行為を避けて、その後様子を見るということである程度は抑止できるはずです」

「ある程度では困るんだ。外国人にまで被害が及んでいるようなので、しっかりと撲滅してもらいたい」

　石黒、山下による必死の訴えが続いた。撲滅というよりも、自然消滅を望むことしかできないのである。未だ撲滅できるほどの研究は進んでおらず、抗体を持った薬すらできる可能性は先を見ない。

坂口と斉藤は、何とかやり過ごす程度では済まない問題に発展していることを改めて二人に説明した。前段階で早めに伝えてもらえればもっと被害は少なくてすんだのかもしれない。政府の対応の遅さに二人は辟易していたが、慎重を期していたらこのようになることは仕方のないことかもしれない。それでも何とかしてほしかった。

「しっかりと終息に向かえるようにこちらも最善を尽くさせていただきます。ですからいつ頃発表していただけるのでしょうかできる限り早いにこしたことはありません」

「まだ明確な日時はいえないが、これから閣僚会議をもって判断することになるだろう」「なるべく早めにお願いいたします」

　何度も重複するようであるが、早くする以外に国民の命の数を数えることを終える手はないのである。

　石黒は坂口が自ら判断ができず、なおかつどちらに転んでも保身ができない状態であることを知っていた。責任問題は必ず起きるであろう。その際に自らの進退をどのように防ごうとするかのみを模索しているようにしか見えなかった。

　その点に関しては山下も同じ意見であった。

　帰りの車の中で、報告書のコピーを握りながら二人は話していた。

「どのくらいで閣議決定され、報道されると思いますか」

「早ければ今夜には報道されるでしょう。遅くとも明日の朝までには…」

　それは石黒の願望であった。山下もそれが一番であると思っている。

「監察医務院や司法解剖院、感染症学会には血液感染説がもう定着しているでしょうが、個々の医院などにはまだ報告がなされていないのですよね」

「そうですね、少しでも被害を出さないためにも、開業医の方たちにも知らせる必要があるでしょうね。ただ現段階で私たちが医師会に報告するわけにもいかないでしょうから難しいですね。まあどこかから一部漏れていることは確かでしょうが医師たちから一般の人たちに漏れることもあるでしょうし」

「全ては行政が握っているでしょうからね。ただ政府にしても、行政にしても今回の事をみてどれだけあてにできるでしょうか」

「明日の朝までに報告がされない場合には、ちょっとあてにできないかもしれませんね」

　石黒は山下との話し合いで一つ心に決めたことがあった。明日の朝までに報道されない場合には…。

　　　（二）

「坂口大臣、前回の変死の事件の件ですか」

　召集した藤原総理大臣は閣僚会議で坂口に声をかけた。

　坂口は額の汗をぬぐいながら、前回の報告に補足する事項を話しはじめた。

「はい、潜伏期間が極めて短く、血液感染のみで感染するもののようです。痛みや症状はなく、増殖したウイスル、又は細菌らしきものが心筋のみを止めてしまうというものだそうです」

「なぜ前回までにすぐ分からなかったのですか」

「もっと明確な資料ができあがってからと思いまして」

「政府が迅速に動かなければならないということは理解していますよね。

まあ、いいでしょう。続けてください」

藤原総理大臣は決断が早くて有名である。だからこそ、今回の問題においても速度が問題だと思っていた。坂口もそれを理解はしていたが、詳しい説明ができない中で藤原に安易に伝えることは勇み足になることもあり、行動を控えていた。

「はい、報告によりますと、体温が３０度以下になると原因物質が消滅するらしく、血液検査などを迅速にしなければ発見できなかったということです」

　他の大臣たちは自ら発言することなく二人のやり取りを聞いているしかなかった。ここは自分たちの判断ではなく、総理の決断一つということである。言い方を変えれば総理にのみ責任があるという状態を作り、自分たちには関係のない、保身に対しての思惑にあった。しかし責任を総理に押し付け、もしも総理が辞職することになれば自分たちも大臣の座を失う。そんな葛藤もどこかにはあったのだろうが…。

「母子感染などもあるという報告は」

「あります。母親が感染していたことから、母乳により乳幼児が亡くなっているとのことです」

　以前、乳幼児の変死は報じられていなかったが、やはり母乳による感染が確認されていた。母乳が血液から成ることを知っていれば、それは可能性の一つになるのだろう。だからたまたま母親が感染していなかったという事である。

　藤原は自らが決断をしなければならないことは理解していた。この状況でどのような報道をするべきなのか。全てにおいて迅速に行わなければならないことは勿論理解していたが、今一度報告書を確認してから、しかるべき対応を取らなければならないと考えていた。

「坂口さん、一番厚生労働省の中で今回のことを理解している人は…」

「斉藤事務次官が一番理解できていると思います。というよりも、他にはこの事は漏らさないようにしています」

「そうですか、それでは報道に載せるための草文をお願いいたします」

「わかりました。すぐに取り掛かるように伝えておきます」

　その話が斉藤に伝えられたのは午後８時を回ってからである。もちろん斎藤は家には帰らずに、徹夜になることも覚悟の上で自らの机で報告を待っていた。

斉藤はすぐに文章作成に取り掛かった。どのような表現が一番国民の不安をあおらずに、終息に向かえる文章になるのか、考えながら、山下、石黒の持ってきた報告書を何度も見直しながら慎重に作成していく。

　その間にも数人の人々の死亡が確認されている。あっちでもこっちでも、多くの人々が亡くなっていく。監察医務院ではやっと事態の全容が掴め、送られてくる患者の全体を調べることをせずに、血液を調べることのみにして一気に労働を減らし、今まで取れなかった休息を取ることにしていた。それでも細心の注意を払わなければならない感染レベルであることは理解していた。

　研究機関はその血液を採取後、温度を保ちながら、慎重に３０度以上の温度の中で、どのように血液中の原因物質を死滅することができるかを研究していった。特効薬ができなくても、ワクチンだけでも将来的に製造ができればと考えていた。もちろん防護服を着た状態であるから、数時間の短い時間の交代で行われていた。

　坂口大臣に話をした翌朝、石黒は早めに監察医務院へと顔を出した。朝というにはあまりにも早い時間である５時だ。テレビをつけ、こまめに番組を変えながら報道を確認していく。勿論新聞の朝刊も確認した。全てを見た上で、今回の変死騒動のことが報じられることはなかった。報道にいの一番に載るとしたら朝のニュース番組であろう。それを録画できるようにハードディスクの準備もしている。

　場合によっては９時過ぎくらいになるのであろう。より詳しい状況でなくても良い。血液感染の抑止方法さえ分かるようにしてくれれば、その後の感染は防げる。感染者には悪いが、全てが消滅してしまえば今回の事件は終息を向かえる。

　いくら研究ができたとしても、原因物質を抑える特効薬ができるまでに数年はかかるであろう。それは症状の出ないワクチンを全ての国民に打たなければならないという観点から国民数にあたる数を作るのに年単位の時間が少なくとも必要ということであった。

　９時、１０時と時間が過ぎ去っていく。こまめに番組を確認するが、そこから変死関係の報道がされることがあっても、政府からの発信報道はなかった。。

「石黒さん、未だに報道がないですよね」

　１１時を過ぎた頃には山下から電話があった。

「そうですね、一体何を考えているのでしょうか」

「まだ閣議でまとまらないのでしょうか」

「そうかもしれませんね。政府は事の事態を把握しているのでしょうか」

「それは勿論しているでしょう。坂口大臣にしたって、この事態を放っておくわけにはいかないでしょうからね。あとは藤原総理の力量次第でしょうね。どちらにせよ判断は早い総理大臣のようですから、まとめ方次第かもしれません」

　二人とも受話器の向こう側でお互いが感じている苛立ちが、自分のもののように伝わってくる思いであった。

「とりあえず、院内感染が怖い気がしますが」

「確かにそうですが、病院自体の機能がとまりかねない」

　山下も石黒も、病院に訪れている誰が感染しているか、していないかなど分からないことから、全ての医療が停止してしまうことに恐れを抱いていた。大きな病気の人以外に潜伏期間の間、医療を受けないようにするなどということは、無理に等しいのだろう。

　せめて子供たちだけでも救いたかった。その点に関してはほとんど１５歳以下の子供たちの死が報告されていないことだけが救いであった。１５歳以下の子供たちの感染者の一部は、乳幼児か女性が多い。それを考えると援助交際などによるものが多い可能性が考えられる。性への目覚めは圧倒的に女の方が早い。同年代の男性が少ないことから、それが大人から子供への感染であることが確認できる。

「そうですね。いたずらに病院の機能を止めることになるでしょうし、無駄な混乱を起こしかねない、私たちはやはり政府が発表するのを待つしかないでしょうね」

　二人ともに歯がゆい思いでいっぱいであった。何かができるかもしれないのに、何もできない。今一度斉藤事務次官に連絡を取ることしかできなかった。

　石黒は受話器を置かずに切った電話の番号を押した。

「斉藤です」

　電話は繋がった。焦ったり、言葉が強くなっては逆効果になると、石黒は静かな口調で話を進めていく。

「後は報道されるのみだと思います。今朝、報告書を坂口大臣に送り、その文章は藤原総理に届いているはずです」

　斉藤は自らの徹夜のことに関しては何も言わなかった。自らの功を見積もりしすぎるような気がして言えなかったのは、斉藤の性分であろう。それでも疲れているということを電話口の口調で感じている石黒は、心の中で斉藤を労った。

「では報道はすぐに行われるのでしょうか」

「それほどかからないと思います。たぶん私も同席させられるのでしょうが、報告書の内容を総理が確認して、ある程度理解してからだと思います。ここだけの話ですが、藤原総理は良い総理ですよ。責任も自分で引き受けるつもりでしょうし、なるべく迅速に事を進めていきたいみたいです。こういう政治家が多ければ、この国は、少しはマシになっていたのかもしれませんが」

　要らない言葉を付随しながらも斉藤は真に考えていた。総理や大臣の一部が頑張っていても国は良くならない。まぁ、自分たちのような役人も同じであると知りながらもそれを考えてしまった。２０％の法則のような話があったことを斉藤は思い出していた。

　２０％が８０％を左右するという事が確かそのような内容だったと思う。

「そうですか、こうしている時にも死者は増えていくでしょうから、なるべく早めにお願いいたします」

「私もそう思っていますし、災害の対策が遅れてはならないのは、過去の例を見て総理も理解しているでしょう」

　その時であった。斉藤の声が受話器から遠のいた。何となく受話器の向こう側でやりとりがなされているが、何を話しているかは聞き取れなかった。

「石黒さん、今呼ばれました。そうかからずに発表されると思われます」

　それだけを言うと斉藤は石黒の返答も聞かずに受話器を置いた。その旨を伝えるためにまたしても受話器を置かずに石黒は山下にすぐに連絡をした。

　臨時のニュースということで、全てのテレビ局が同じ映像に切り替わった。

「数日前より増えている変死について、藤原総理大臣より報告がございます」

　進行を務める役人の一人がマイクで開会を告げた。記者会見の座席に座り藤原は淡々とした口調と表情で話を始めた。

「数日前からの変死事件ですが、司法解剖などの結果により、血液感染の可能性があることがわかりました。

　今回のものは、痛みや発熱などの症状はなく、血液感染により心臓の機能が一瞬に失われるものだそうです。はっきりとしたことはいえませんが、潜伏期間は約一週間から１０日程度とみられています」

　一応の簡単な報告が藤原総理の口から発表された。それに対して記者たちから矢継ぎ早に質問が飛び出す。藤原の表情は覚悟の故か、固くなっていた。その横に座している斎藤も緊張の色を隠すことはできなかった。

「空気感染の恐れは」

「ありません」

「何か薬などはありますか」

「残念ながら現在は特効薬などない状態です。新種のものであり、現在研究機関にて対応しておりますが、原因物質の状態を調べるところからやっておりますので、薬などの話はまだまだ先になるでしょう。」

「予防法としては」

「血液感染ですので、経口感染、用は傷などの処置の際に血液が他の者の体内に入らないようにすることです。また性感染や母乳による母子感染なども可能性がありますので、できる限り他人の血液に触ることを避けるということしかいえないでしょう」

　記者たちの質問に藤原総理は答えていく。全て斉藤が用意した文章に従ってのものであるが、他の仕事もこなしながら、良くここまで覚えていると、斉藤は感心していた。

　テレビによる放送がされている間に、外務省はあちこちの国への連絡に追われていた。しばらくは日本に渡航する外国人の数は激減するであろうが、海外にまで被害が広がってしまう方が日本という国として影響があった。世界的に平和で知られている日本だからこそ、すぐに知らせることによって、自国の立場を守ることが先決であると藤原が判断したからである。

　すでに数名の外国人も同じ原因物質によって感染し、死亡している。その出張先や足取りを辿ってみると、無店舗型やマッサージと名をうった店に遊びに行っていた可能性が高いという。医療などの経路から感染したというよりも、性感染が圧倒的に多いのであろう。

　それを考えるとすぐに風俗の閉鎖をする必要があった。しかし資本社会において大手の企業でも個人でもそうであるが、人の体よりもまずは金儲けのほうが優先である。買った側がどのような被害を受けようとも、買った方が悪いのである。

　藤原は自分が総理大臣になった際に、このような事態が起きるなど夢にも思っていなかった。まあ、それを予知できたら総理大臣などというものになることはなかったかもしれないのだが…。今まで起きた数多くの災害にしても、その時の現職総理大臣はやはり同じ気持ちであったのだろう。

けれども起きてしまったことを嘆いてもしかたがない。それにどのように対応するかによって、名誉職でもある総理大臣としての、後世に残せるものができてくるのである。

　記者会見を終えてから、各国の首脳陣から来る連絡に藤原総理は追われた。一人では間に合わないために、国の上位を決め、数名の大臣と共に対応することになった。アメリカなどの国では、渡航禁止以外にも、状況が収まるまで帰国禁止という処置が取られた。それなので日本の空港では、国によって帰国できない状況を作らざるを得ないどころか、海外の飛行機の受け入れを一時中止すると共に、海外へと出ることも同時に禁止せざるを得なかった。ある意味鎖国状態である。

　渡航禁止の国が多くなるのであれば、自主的に閉鎖してしまったほうが他国に対して示しがつくと思ったからである。

　これで沈静に向かうであろうが、予断はできない。しっかりとした血液中の原因物質の生態を調べ上げたわけではないので、石黒は山下と共に、更なる思いを描かなければならなかった。あとはどれだけ国民に対して今回のニュースが広まっているかである。それだけが気になっていた。

　テレビを見ている人も、昔ほどの数ではない。ネットからのニュースの方が広まるのが早いが、ネットでは拾おうとしなければそこには行き着かない。一部でも沈静をしないで同じような症状の人間がでてくれば、それはかなりの時間、さまざまな分野で禁止することが増えるであろう。

　　　　　　（三）

「亮先輩、これで治まるのでしょうか」

「そう願うしかないな」

　亮は心配であった。だからこそ治まるという言葉に対して断言することはできなかった。貢のような人間であればこんなニュースを見ることはないかもしれないし、自分の快楽が先行していたとしたら欲望は留まることをしらない。そう考えるとチェーンメールになってしまうが、友人たちにだけでもばら撒いたほうが良いのではないかと考えた。

　しかしながら伝言メールはあくまでも伝言メールになってしまう。一人の読み間違い、勘違いで逆に不利益になってしまうかもしれないのである。短文になれた携帯メール世代には文章力がなく、そこにも不安があり、それと共に読解力もなければただの電波に乗せられた文字という記号でしかなくなるのである。

　それを考えると安易にネットに頼るのもはばかられた。

「聖羅や順菜、貢先輩のような人たちがこれ以上出ないことを祈りたい」

　佐智は本心から祈る思いであった。少なからず憧れていた貢はもういない。それどころか自分たちの年齢の現状を聖羅や順菜から学んだ気がした。どちらが良いとか悪いとかではない。しかしながら自分が思い描いていなかった男と女がそこには存在するのである。

　確かに動物は全てにおいて性行為をして子孫を繁栄していく。自分もその恩恵を預かったからこの世に生まれてきたのだ。しかしながら、ＨＩＶや今回の血液感染によって血の繋がりが仇となる場合もある。それを考えると、産まれたことが恩恵なのかと思うとそうではない可能性があると考えてしまう。それでもそれを佐智はやはり恩恵として受け止めていたかった。

　ましてや歯止めの利かない欲求であると思えば思うほど、虚しく感じていた。過去には現在よりも性が開放的であったとはいえ、人間の行動範囲が広域でなかったから、その場その場で済んでしまっていたのかもしれないが、これだけ世界が狭くなってしまうとそうは行かないのかもしれない。便利になればなるほど、弊害は小さい社会の中で納まらずに大きく出てくるものである。

　三迫は少し遅れて二人の元へと着いた。前にも会った喫茶店である。しかしながらその時には二人と面識はなく、疲れた頭と体で意識が現実と眠りの狭間を行ったりきたりしている時であった。

「お待たせしたね」

「いえ、こちらこそお呼び立てしてすみませんでした」

　三迫は店員にコーヒーを頼み、二人に向き直った。

「先にお礼を言っておくよ。君たちの助言や、亡くなった友人たちのお陰で、早期解決を迎えることができそうだよ。ありがとう」

　頭を下げ、次は君たちの用はという顔をして三迫は顔を上げた。

「お礼だなんて、それにしてもこんなにすぐに発表になるとは思わなかったですよ」

「そうだね、俺たちもこんなにすぐになるとは思わなかった。逆に言えば、進行が早いからこそ、早めに手を打てたのかもしれない」

「そんなに進行が早いものだったんですか」

「ああ、途轍もなく早い。エボラ並みだ。だからこそすぐに結果が分かり、発表することもできたんだ」

　確かに進行の早いものであるからこそ、人は死んでしまったのだが、早期に原因が見つかったのは進行が早く確認がすぐに取れるものであったからだ。

「けれども、本当に治まるのでしょうか」

　亮の問いかけに、三迫は小さく頷いた。

「ただこればかりは人の問題だからね。ニュースを見ていない人もいるだろうし、関係なく商売をする人もいるだろう。届出をしている風俗は全面閉鎖となっているから問題ないだろうが、出会い系、援助交際などの人たちがどれほど報道を見て、利益に走らないでいるかどうかだろうね」

　援助交際、用は売春である。言葉遊びにしては酷く作られた言葉である。言葉を作った人間にも刑罰を与えなければならないものがあるのではないかと、思えてしまうものもこの日本には数多くあるように思えた。

軽く使える言葉にしてなるべく罪の意識を遠ざける。片仮名用語や他でもそうであるように、甘え逃げることによってどんどんと抵抗力がなくなっていく。劣等感に立ち向かわないことで、先がなくなり、弱く貧弱になっていく。そしてまた逃げ道ばかりを探すようになる。逃避の言葉は、逆に先を狭めていくのである。除菌、抗菌なども過度にやりすぎれば害になることと一緒である。

「では、どこかで感染した場合においては、まだまだ予断は許さないということになるのですね」

「そういうことだね。どこかの莫迦どもが、これを利用するなんてことにならなければいけどね」

　コーヒーをすすりながら言った三迫の予感は、後に的中することになる。一歩的に莫迦という表現をすることはどうかと思うが、頭を使うからこそ、それを利用する莫迦がいることもある。

　一週間の冷却期間が過ぎようとしていた。

　死者は感染していた者を含めて、次々に病院へと送られてくるが、全てが解剖に回された。しかしながら明らかに変死ではなく、不審な死でなければ血液検査を行い、原因物質が発見されればそこで打ち切りになるのである。

　よほど外傷がない場合においても発見されれば同じとみなされるが、外傷がある死体がくることはほとんど無いに等しかった。

「お疲れさま」

　三迫と入れ替わりに帰った箕輪はまっすぐに家へと向かった。結婚してから１２年。子供ができなく妻はほとんど家にいることはなかった。ある程度の夜の時間には帰ってくるが、昼に連絡を入れても在宅していることはまずなかった。

　以前不審に思った箕輪は一度興信所に頼み、昼の妻の足取りを追った。

　興信所の報告では同級生であった男、そして老人とホテルへと入っていると、写真付きで報告を聞いていた。愛しているはずであった妻に触れることもなくなったのはそれからである。普段であれば、夕刻を過ぎてからでないと帰る気は起きなかったが、今日はなるべく早くに帰ろうと考えていた。

　駅で電車がくる間にビールに似せた缶の模倣商品を飲み、家路へと向かう。

　珍しく早く帰ってきた箕輪に妻は少し驚きながらも、愛情のない会話を少しだけして夕食を出す。いつもは時間が遅くならないと帰ってこない箕輪は作り置きの食事を自分で冷蔵庫からだすが、今日はそうではない。電子レンジがなかった時代には温め直すなど考えられるものではなかった。

　本来ならば色々なことを話しながら、これから先も共に生きていく話しをするのであろうが、そういう気にもならなかった。どこで歯車が狂ったのかはわからなかったが、人生がこのようになってしまったのは仕方が無いと考えていた。自分にも原因があるかもしれないし、妻にも原因があるかもしれなかった。またそれがわかったにしても、それを改善していたかはわからない。初期の愛情は、長くは続かずに、劣化を繰り返してしまった。水をやり続けなければ花は育たないのである。愛情もお互いが同じように水をくべなければ枯れてしまうのであう。

　風呂から出てくると、もう先に布団に入ってしまった妻を見ることもなく、冷蔵庫から模倣ビールを出してゆっくりとそれを飲んだ。結婚した当初はビールがでてきたが、今はもどきである。ビール類にも属さない、ただのアルコール摂取のためで、嗜好などはどこにもないという安い代物ばかりである。テレビも面白くないので、ニュース番組しか普段は見ないのだが、その日はなぜか違う番組を見ていた。

　テレビよりも珍しく、２本目の模倣ビールを飲む。落ち着きがない証拠であろうか、それとも早く帰ってきた反動であろうか…。

　ある程度の時間がしてから、妻の様子を見に行く。冷房をかけた部屋は先ほど模倣ビールを飲んでいた居間よりも涼しく感じられる。元々何かがあっても動じずに寝ることのできる妻の様子を見てから、一度居間に戻る。

仕事用に持っていっている鞄から、保温ケースに入れた物を取り出す。不思議と緊張はない。そしてまた、しっかりとした足取りで寝室へと向かう。

　ゆっくりと妻の身体に近づく、もちろん妻の反応はない。箕輪に取って先ほどにはなかった緊張が体を巡る。アルコールのせいで気が大きくなっている。なるべくばれないようにするために、肌蹴た脂肪の多い脇を狙う。それはほんの数秒であった。いや秒数というものでもなかったかもしれない。

　箕輪はすぐに寝室を離れた。そして冷蔵庫で今日３本目の模倣ビールを飲んだ。先ほど潤っていたはずの喉は、緊張から渇いていた。飲んでも、その渇きは消えるような気がしなかったが４本目を飲んだ後に、やっと酔いを感じて落ち着いた気がした。

　貢が死んでから１８日が経過しようとしていた。

　以前の大量発生時から比べると、日に送られてくる人数はかなり減少していた。だいぶ原因物質である血液感染が治まってきていることが伺える。

山下も石黒も、目に見えた成果に喜びを隠せないでいたが、三迫が思っているように、報道を見ない一部の人間たちがどのような結果を引き起こすかもしれないという不安は抱いていた。そうでなくても、今送られてくる人たちはその一部なのかもしれない。そう思うといかに情報を掴むかが、生死を左右するものになる。改めた認識であった。

「斉藤事務次官もずいぶんと尽力を尽くしてくれたようですね」

「そうですね、実際坂口大臣はあまり役には立たなかったでしょうからね」

　二人は電話で話をしていた。職員の休みも元通りに取ることができるようになり、本来の業務ができるようになっていた。

「あとどのくらいで落ち着くかでしょうか」

「さぁ、でも時間の問題でしょう」

「しかし効果のある薬などができる状態まではいきませんでしたね」

「そうですね。保管も去ることながら、やはり感染力を考えると仕事がはかどるとは思えませんからね」

　二人の頭の中に、防護服のような服装で、なおかつ高温室の中での作業が浮かんだ。それだけで緊張と汗が体を覆う。

　職員が仕事に関与できる時間も決まっている。約１０分も解剖をやれば集中力は切れ、休みを取らなければならない状態である。３０分やれる職員もいたが、その後の回復が遅れるからなるべく交代や休憩を取りながらの方が効率は良かった。その中で研究をするということが、どれほど大変なことか、二人は充分に理解していた。

　そんな中である。一つの報道が飛び込んできた。

「今朝、群馬県山中の別荘で、２０人ほどの男女の遺体が見つかりました。

　外傷などはなく、麻薬のような物を服用した後があり、全員が全裸という異様な光景に捜査員は慎重に取調べを行っております」

　可能性として無いわけではなかったが、思っても見ないことが起こってしまった。麻薬の中毒で死んだ可能性は低い。だとすると…。

　石黒はすぐに群馬県警に連絡を取り、血液の採取をお願いした。

　すぐさま器具を持った解剖班が全ての男女の血液を採取していく。

　それも医務院と同じく防護服を着た職員である。それを急ぎで東京まで搬送してもらった。もちろん温度などを守りながら、高速道路を飛ばした車は、半日とたたずに石黒の手に渡った。そしてその血液を調べていく。

　その日の夜の報道を、佐智は亮の部屋で見ていた。

「今朝見つかりました群馬県山中での遺体は、今回の血液感染を元にした自殺と見られ、男女の身元を調べております。

死を前提としたものらしく、わざと感染するように性交を繰り返し、麻薬などを服用しながらの死である可能性が高いと見られております」

　佐智は友人たちの死を悲しんでいたが、そこに輪をかけて死を求めていた者が身近にいるとは考えていなかった。だが自殺者が多い国である。しかも痛みを感じずに死ねるとしたら、そこに行きつく人たちは少なくはなかったのだろう。

「たぶん、この人たちの中に細貝がいるんだろうな」

「ええ、そうでしょうね」

　亮の部屋に来た理由には佐智の元に２日前にきた同じサークルの細貝美穂からのメールの件であった。そのメールの内容はこういうものであった。

「今まで何度も死にたいと思っていたけれども、なかなかその勇気がなかった。けれどもやっと死ぬことができそう。痛みを感じずに、快楽をむさぼりながら死のうと、あるサイトで見つけたんだ。

　サイトを作った人の友人にかなりの遊び人の人がいたらしいんだけど、その人が今回亡くなって、死んだ時に一緒にいた自殺したかった人が血液を採取したらしいんだよね。そしてそのまま飲んだらしい。

　それをみんなで分けようという話になって…。

　私も行って来るね。学校の友達ではあまり信用できる人がいなかったからさっちゃんにこのようなメールを送ってしまってごめんね。

　私の希望が叶うように願っていてね」

　ニュースの報道があったから、佐智は亮に相談にきたのである。　

二人はやるせない気持ちでいっぱいだった。苦痛が無く死ねるからと言って、自らが命を絶つという行為はやはり悲しかった。望んでいることとはいえ、それを受け入れるわけにはいかなかったし、願っていてと言われても、願いたいとは到底思えなかった。身近に貢や聖羅、純菜の死を見てるからこそ、知人が死ぬことは辛く、悲しいことでしかなかった。

「どうしようもない事を考えるやつが世の中にはいっぱいいるって事だな」

「この分だと、他にも同じようにして自殺する人たちがいるんじゃないでしょうか」

「どうだろう。けれどもありえるだろうな。希望がなく、この世の中にただ産み落とされた人たちもいっぱいいるからな。うちらの年代では多いだろうが、育児放棄、暴行、性的虐待を親から強いられた奴らがいる。そいつらはやはりうまく人の世を渡って行けずに、死を選択したがるのだろう。まぁ、自殺の原因はそれだけじゃないだろうけど」

　亮の認識以外でも、生活の不安や職場でのストレスなど、自殺をしたい人たちはこの日本にゴマンといるのだ。納まってきたとはいえ、日本は先進国の中でも自殺者が多い国なのだ。

「でも、そんなに簡単に死んでいいんでしょうか」

「仕方ないさ、他の動物と違って、唯一と言っていいくらいに自ら死を選択できるのも人間くらいなものだからな。それにしても日本が世界でも有数の自殺大国だということを忘れていたよ」

　亮の声は、何かを皮肉っているようにも思えたが、何を皮肉っているかはわからなかった。ただ一つ言えるのは、この国の一部の人間たちが、生というものに対して、執着しなくなっているということであった。執着しない理由には様々なものがあるのだろうが、先の見えない不安よりも、先への希望の無さ、現実と非現実の境の中で現実が受け入れられないなどであるのだろう。

　一匹の蚊が亮の部屋の中へと入ってきた。うるさく飛び交っていることを耳障りに覚え、尚且つ刺されるかもしれないという、小さな恐怖から亮は殺虫剤をまいた。ふらふらとそれを吸った蚊が、力なく飛行するようになり、次第に低空飛行になり、やがて痙攣をするようにしながら床にひっくり返った。

「何だか知らないうちに死んでしまうなんて…蚊が受けた殺虫剤よりも酷くはないのかもしれないが、同じようなものなのかもしれないですね」

　佐智は死んだ蚊をそっと持ち上げて、手の中へと入れた。亮はそれを掴んでゴミ箱へと捨てた。

「確かに知らないうちに死ぬという面では同じかもしれないね。俺たち人間は自分たちの優越のためだけに、害をも及ぼさない動物を数多く殺し、その上で恩恵を受けている。ただ、食料になる動物たちにはしっかりと恩恵を受けているという気持ちを持たなければならないのだろうけどな」

　亮は少しだけ悲しい気持ちになったが、やはり人間としては蚊を殺さずにはいられない。しかし死と言うものを考えた時に力の及ばないものが、力あるものに死を与えられるということがあることに気がついた。

　自分たちが失敗をして、やり直すために作られたノアの箱舟。その自分たちとは神である。絶対的に力の及ばない世界からは、死を与えることなど簡単なことであった。

　蚊と人間の関係以上に、それは根強いのかもしれない。

　契約を交わしたモーゼは助けられたが、契約を交わさなかった人たちが、海に飲み込まれていった光景までもが、頭に浮かぶ。

　亮にとってはどうでも良い話であり、あくまでも物語である。それが運命でも何でもなかった。死ぬだけの運命ならば、それこそ死を弄ぶものであろうし、神の遊戯にしかならない。そんなことはあってはいけないのだろう。

　亮はそっと佐智の肩を抱いた。自分の不安の気持ちだけではない、自分の中に芽生え始めている感覚がそうさせたのだった。

第四話　　　（一）

　先日報道された集団自殺のように、今回の血液感染を使用した集団の中に、細貝美穂はいなかった。思いとどまったのか、それとも別の集団と行動を共にしているのかはわからなかった。しかし兎も角報道の中に名前になかったことに佐智は胸を撫で下ろした。

　藤原総理大臣がこの変死においての血液感染を公表してからすでに１０日が経過しようとしている。本来はここまでくれば治まったも同然と見られていただけに、昨日の報道は首脳陣の頭を悩ませていた。日本が世界有数の自殺大国であったことを、こんな事で思い出させることになるとは思いもしなかったからである。

　妙なところから感染さえしなければ、今回の事件はほぼ治まる予定であったが、そうはいかなかった。治まらないという事実があり、全ての港や空港が封鎖され、未だに渡航もできずに、経済は停滞してしまっていた。一部の国内企業や輸入を規制して欲しいような業界で一部、表に出さずに喜んでいるところはあったようであるが…。

　このところ多く送られてくる死者たちの中には、中国、韓国などの売春婦が多い。文字を読めない、聞けないなどから危険な情報が伝わりきらなかったせいもあるが、経営者はこの際だから売春金額が上がることを予想し、女性たちを働かせていた。それと同じようにして、主婦売春は高値で売れると踏んで、警告を無視した日本人女性たちも少なくはなかった。コンドームをしていれば良いと安易さの中で、どこからか血液感染を起こした場合もあったようである。

　若者の一部は、ロシアンルーレットのようにして、逆にそれを弄んだ遊びをしているともいう者たちもいた。どれだけの関係を持ち、その上で生き残ることができるかというものであった。これがネットという、現実と仮想の間のせいであるとは勿論言い切れることではないが、どこかに因果関係があるのではないかと考えてしまうことは、昔からゲームのせいにしてきた世論などと同じようにしかたがないことなのであろう。

　そんな中、箕輪の妻の葬式が行われた。

　この変死騒ぎがあってから死者の数が多く、葬儀屋も間に合わない状態である。高齢の住職などは逆に忙しさのために、過労死してしまうのではないかと、冗談をいう者もいた。首都圏が中心となって起きているために、故郷がある人たちは遺体を搬送して火葬場を確保することもあった。ただ箕輪はこの時期に長期休養できるはずもなく、自宅からそれほど遠くない葬儀場がなんとか取れた。

「箕輪さん、このたびはご愁傷さまです」

　解剖検査院から全ての人間が葬儀に参加できないことから、三迫と石黒の他、数名と共に葬儀に来ていた。とはいっても昼の時間には大人数では来られないということから、通夜の終わりの時間を見計らい、無理を言ってきていた。

「まあ、今回の血液感染のことは仕方がないと思っているよ」

　箕輪は肩を落とすまでもいかずに、結構あっさりと妻の死を受け入れた。日々、人の死を見ていると、このように感傷的にならないものなのかと、三迫は感じていた。それでも自分の近親者が亡くなった時に、これほど冷静にいられることはないかもしれないと感じていた。

「だが、奥さんが今回の変死で亡くなったんじゃ、お前も感染している可能性があるんじゃないか」

　石黒は心配になっていった。仮に感染が箕輪から奥さんであれば、先に感染した箕輪が亡くなる可能性が高いが、それが絶対ではない。そんなことででその逆の可能性がないわけではなかった。

特効薬がない現段階で血液検査をしたとしても治る可能性はないが、他の従業員への感染を考えると少なからず検査をしたほうが良いと考えてしまう。

「大丈夫ですよ。もう妻とは数年間もそういう関係ではありませんでしたから。一度、昼の外出が多いことから調べてみたら２人の男と浮気していることがわかりました。たぶんそこから感染のではないかと…」

　淡々と語る理由がそこに、冷えた夫婦関係にあったと三迫は悲しいようで、悲しい雰囲気を見せていなかった箕輪に同情していた。少なからず、日々の死を見ているからというわけではなさそうであった。

「どちらにせよ、配偶者から感染者が出たということは、可能性がないわけではない。１０日間くらいでいいからゆっくり休め」

　石黒は厳しい言い方ではないが、血液の原因物質の潜伏期間である１０日という出勤停止を箕輪に告げた。まあ、忌引でもあるから、悪い意味で言ったわけではない。

箕輪からしてみれば棚から牡丹餅である。思わぬ休みができ、ちょっと前までの忙しさのあまりに４２歳の体が、悲鳴を上げていた体を休めることができると思った。しかも原因を作ったのは自らの手である。

　ちょっと温泉にでも浸かって安息をむさぼってくるのも悪くは無いと思った。

「ちなみに、奥さんの相手は特定できているんだよな」

「ええ、丸橋という探偵に頼みましたから分かっていると思います。私は名前までは確認しませんでしたから」

　石黒は何となく聞いた丸橋という名前を頭の片隅に残していた。なぜだかわからないが、別の不安が無い訳ではなかった。だが、それを今この場で言って間違っていたではすまなかった。

　翌日、箕輪は葬儀を終えた足で、温泉旅行へと向かった。高速道路も近く、行きやすい群馬県の温泉へ、である。特にどこという訳ではなかったが、辛気臭くなった家にいるのも嫌だったし、出勤停止でどうせ何もすることがないからという理由であった。本来このような状況で出勤停止であれば、自宅待機ということなのかもしれないが、自分が感染している可能性はないと思い、行動に移していた。

　石黒は告別式が終わった足で、丸橋という探偵を尋ねていた。十条の駅から歩いて２０分ほどのところにある雑居ビルの中に長身で細い男はいた。

「今朝連絡をさせてもらった石黒という者ですが」

「石黒さん、要件は確認していますよ。どうぞ」

　使い古されたような、くたびれたソファーに石黒を招いて、自分も正面にある椅子へと腰を下ろした。そして一冊のファイルを開いた。

「以前、箕輪さんが調べて欲しいといった二人の男性の生死を調べて欲しいとのことですね。でも何でまた」

「今朝も言ったように、私は箕輪と同じ解剖検査院の者で上司に当たります。

今回、当院の家族に血液感染が原因による死亡者が出たのは初めてでして…。本人は性交渉はもう奥さんとはなかったようなので、その二人の死亡が今回の変死のものであることが確認できれば良いと、単純にそれだけなのですよ。場合によってはうちの医院から感染したでは済まされないですからね」

　確かに箕輪から妻への感染であれば箕輪が先に亡くなる可能性はあるが、正確な潜伏期間がわからないだけに、一度院内感染というものも調べなければならないと石黒は考えていた。性交渉がないからと言って、血液がどこかで付着している可能性もあるから、できる限りのことを調べたかった。

「わかりました。では生死と場合によっては死亡の原因を調べましょう。どちらにしてもすぐに調べられるでしょうから、明日には連絡できると思います」

　丸橋は丁寧に答えてくれた。石黒は責任逃れと思えるようなものであるが、箕輪が感染していなく、妻の死亡原因が分かりさえすれば、そのまま業務を続けることができると安易に考えていた。

　翌日、丸橋から電話がかかってきた。言っていた通り、行動は早かった。

「昨日の結果の話ですが、まず老人のほうは３ヶ月前に亡くなっているそうです。死亡原因は脳内出血だったそうです。

それともう一人ですが、生きていますよ。しかも丁度渡航禁止になる前日に出張で海外に出ているそうです。そちらでの安否も確認できています」

　それを聞いた時に、絶対的に感染が医院ではないという可能性がなくなってしまった。老人の３ヶ月前であれば今回の変死騒ぎは起きていないし死亡原因もはっきりしている。もう一人の男は１３日前に海外に出たとして、その前に男性が感染していたとしたら、男性も死亡していておかしくは無いはずであった。ちょっとした疑惑であったが、明らかに不自然な事が起きてしまっていた。

　逆に言えば院内感染の恐れが強くなってしまったということである。これで箕輪自体が死亡した場合には、それはほぼ確定されたものとして扱わなければならない。自分の首が飛ぶことよりも、人を死に至らしめてしまった可能性があるという方が、石黒は恐ろしくてならなかった。

　しかし、箕輪の妻が死んでいて、愛人たちが原因ではなく、一人は生きている。そして箕輪が死んでいなかったらどこから感染したのか。それが特定できない。他にも愛人がいたのかもしれないが、それの確認までは取ることはしなかった。そこまでして死人の素行を調査しても意味がないからである。

この結果から、まだまだ変死事件が猛威を振るっているということが石黒には確定できる気がしてならなかった。

　箕輪は温泉街で久しぶりに晴れた気分でいた。憎むまでいたってはいないが、必要の無くなった夫婦関係を解消できた。しかも離婚という面倒なこともせずに、である。

一番忙しかった時には、今回の変死事件を恨んだりもしたが、今となってはそれがあったから晴れやかな気分になれたことを今更ながら実感していた。

　露天風呂に入り、晴天の空を眺めていると、酒が飲みたくなってきた。しかしまだ宿も取れていない。せめて宿を確保したいと箕輪は温泉を出て、再び車を走らせていた。そんな時であった。

　道のわきのほうから一人の女性が飛び出してきた。険しい道を歩いてきたのだろうか、体のあちこちには泥や砂の汚れのようなものがついている。疲労も勿論、それに比例するように表情に見られる。その証拠に、道へとたどりついた段階で、後ろを振り返り、その場に膝をついてしまった。

「どうした」

　箕輪は後方から車が来ないことを確認してから路肩に車を止めた。

「逃げてきたんです。ちょっと怖くなって…でも誰も追いかけてこないから平気だとは思うんですが」

「追われているのかい」

「いや、追われていることはないようですが、とにかく怖くて…」

　少女の言葉は途切れ途切れであった。水でもと思ったが、箕輪の車の中には自分の飲んでいたペットボトルしかなく、それを飲ますのはあまり良いとは思えなかった。

「取りあえず乗りなよ」

　まず気持ちを落ち着かせることが先決であると箕輪は女性を車の中へと案内した。外湯を出て温泉街を走っている車であるから、すぐに戻り、近くの土産物屋で飲料を購入して、女性へと差し出した。

「ありがとうございます」

　女性の手の震えはいつの間にか治まっていた。

「いや、そんなことよりも、どうしたんだい」

　殺人を犯した箕輪の姿はそこにはなかった。もっとも人を殺したという意思はほとんど無いに等しかった。撲殺した訳でも、絞殺した訳でもない。苦しむ姿を見てもいないのだから罪の意識は少なかった。職場にいる際に誰の物ともわからない血液を盗み、自らが手を下さなくても、本当は勝手に死んだのではないかと思えることもあった。

「ちょっと前に、集団自殺のサイトを見たんです。実際私は将来の夢もないし、大学に行っていてもつまらない思いばかりでした」　

　女性は箕輪に貰った飲料を飲み。少しずつ落ち着きを取り戻していた。それは口調でも最初にあった時よりも落ち着きを取り戻しているようであった。

「もしかして、変死の血液を用いて集団自殺をするって、数日前にあった事件と同じようなやつか」

「はい、そうです。誰が保菌しているかは分からないのですが、絶対に死ねるという話だったので」

「それに乗ったというのか」

　今回の変死事件がこのようなやり方で使用されている。現代社会の歪のように感じていたところであるが、自らが一番の大罪を犯していることを箕輪は再度理解した。そして、俺自身も現代の歪の一つであると思えてならなかった。

「そうです。痛みがなく死ねるという話ですが、やはり死の恐怖はぬぐえなかったんです。他の人たちもそうだったのでしょう。しかし、ほとんどの人たちが麻薬などを服用してハイになり、その状態で性行為を繰り返しはじめたんです。

　私は麻薬もやるのが怖くて、どんどんみんなが裸になり、性行為をはじめる姿を見て、怖くなって逃げてきました」

　落ち着いてきたとはいえ、その時の状況を思い出すと、震えるまではいかないが、鳥肌が立ちそうな感覚に女性は襲われた。もちろん今まで複数の男性を相手にしたこともなければ、大勢が性行為に及ぶ姿を見たこともなかったから、その異様な光景にもついていけなかった。

「とにかく、その現状を知ってしまったからには、放っておけないな。それがどこで行われているか教えてくれないか」

　自分の罪の意識に対する埋め合わせなのであろう。箕輪は警察に通報しようとした。しかしながら、細貝という名の大学生は、車で待ち合わせて連れて行ってもらい、山中を逃げてきたというので、詳しい場所は特定できなかった。しかしながら、大体の範囲を調べて欲しいと警察へ届けた。

　東京に住んでいるという細貝という大学生をこのままにする訳にもいかず、箕輪は温泉へつかることを諦め、彼女の自宅へと高速道路を使い、帰ることにした。

　　　　（二）

「先輩、美穂から連絡がきました。帰ってくるみたいです」

　佐智はこれ以上自分の知人が死ぬということがなくなった嬉しさから亮へと電話を入れた。最初の貢の死から聖羅、順菜のほかにも、サークル関係の中で数人の死者が出ていた。それは全て今回の血液感染によるものであった。

「どこにいたって」

「群馬県だそうです。たまたま知りあった方で東京の方がいらしたようで、車に乗せてもらって帰ってくるみたいです」

「そうか、でも群馬まで行ったということは、血液感染しているのかな」

「集団自殺の件ですよね。そのような行為はしていないみたいですが、感染しているかどうかはわかりませんよね。

とにかく帰ってきたら詳しいことを話してくれるそうです。怖い思いをしたみたいで、一人では居たくないらしく、今夜会うことにしました」

「そうか、じゃあ場所と時間が分かったら教えてくれ、出来る限り俺も行くようにするよ。それと、くれぐれも感染がないとは言えないから、血液が付着することがないようにしてくれ」

「お気遣いありがとうございます。じゃあまた後で連絡します」

　このところは、どんな場合でも亮がそばにいてくれると、その感覚だけで佐智の心は落ち着いた。苦しい時に支えてくれた人だからこそ、そう思えるのだろう。

　貢への憧れの気持ちはあったが、実際に付き合ったりしてみたら、亮とのような関係にはならなかったかもしれない。誠実というよりも、考え方を知れば知るほど、亮に惹かれていくのは、自らを導いてくれているからかもしれないと考えていた。感覚だけでなく、行動などを踏まえて惹かれているのである。

「さっちゃん、ごめんね」

　待ち合わせをした駅のロータリーで、美穂は佐智に飛びついてきた。怖い思いをしたのだろう。あまり付き合いは深いほうではないが、前回のメールで信用できるという言葉をもらってから、以前よりも親近感が沸いていた佐智は、美穂の背中を抱いて優しく受け止めた。

「いいよ別に、無事に帰ってきたんだから」

　もう少ししたら亮が車で向かえに来るから、そうしたら美穂の家に行き、話をしようということになっていた。

「もう大丈夫そうだから、俺は行くよ」

　佐智と落ち合った美穂に軽く挨拶をして箕輪は去っていこうとした。

「待ってください。今度お礼をしたいと思いますので、ぜひ連絡先を教えていただけませんか」

　群馬から東京までの道のり、ずっと話に付き合い、送ってくれた箕輪に対して、美穂は心から感謝をしていた。今はまだ自分の気持ちが落ち着いていないが、しっかりとした形でお礼をしなければならないと考えていた。

　箕輪はポケットから名刺を取り出して、美穂に渡した。

「特にお礼とか考えなくてもいいから」

「とんでもないです。改めて連絡させていただきます」

　そんな簡単な言葉のやりとりを終えて、箕輪は車を走らせていった。それと入れ替わるように、亮の車が到着した。

「細貝、お帰り」

　その一言に美穂はまた涙をうっすらと浮かべて、小さく頷いた。亮はその頭に手をやり、軽く撫で、改めてお帰りと言葉をつなげた。

　車で向かった一人暮らしの美穂の家で、今回のことが告げられた。あらかたメールの文章であったことと同じであるが、集団自殺をしようということであった。そして麻薬などをやりながら性行為をしていく人たちを見て怖くなって逃げてきたという話であった。

「まあ、生きてりゃなんとかなるだろう」

　亮は軽く言葉を発したが、その後に続く言葉を考えると少し重い気持ちになった。

「で、細貝は一切、血液が付着するようなことはしていなかったんだよな」

　想いの籠った眼であった。ここで少しでも血液に感染するような行為をしていた場合には、感染している、していないにかかわらず、死を意識して過ごさなければならなかった。そのためにどこまで自分が関与してきたかを確認しなければ、今後どのように接してよいか判断できなかった。

「私は一切性行為はしていないですし、血液が付着したりもしていないつもりです。麻薬も手を出してはいません。思えば煙草を吸ったりしていなかったので、吸引するにしても怖くてできなかったからでしょうし…」

　亮のみならず佐智も胸を撫で下ろした。近年、麻薬が広まっている中で、喫煙する、肺に煙を入れるということは、その第一段階であるといわれるくらいである。もしも煙を吸引することに慣れていたら、美穂は麻薬をやり、高揚した気分で感染を繰り返し、ここに帰ってくることはなかったかもしれない。煙草というエントリー行為をしていなかったお蔭で、逆に吸引をして、気分が異常に高揚していく人たちを見ていたからこそ、恐怖を感じたのであろう。

「その言葉を信じることにするが、少なくても潜伏期間と言われている１０日くらいは人と接する時に気をつけたほうがいいだろう」

　その亮の言葉に、しっかりと美穂は「はい」と返事をした。

「なあ、それにしても日本人はこれほど平和ボケしてしまったのかな」

　一晩つきあった美穂の家からの帰りの車の中で、亮はボソッと呟いた。

「どうしたんですか、急に」

「いや、生きたくても生きられない国があるのに、もちろんそう言う人もいるのに、自ら命を絶とうとしたり、それを遊びにしたりするなんて、信じられなくてな」

「そうですね。遊びにしてしまっていることは、私も報道を見ていて信じられないです。辛くて死にたい人の気持ちは百歩譲ってわからないではないですが…」

　人の温もりを肌で感じたい。そんな感覚に陥る心を佐智は必死に抑えていた。手をつなぐことから、人は繋がり、体が繋がっていく。そして子供ができる。そんな流れが本能の中に刷り込まれている。寂しさのあまりか、何かはわからないが、人と人は触れ合いたくなるのである。発情期がない人間の発情は、愛情だけでなく、寂しさや虚しさという全ての感情から生まれるものであるのかもしれない。

　赤ん坊の確認作業のように、口で感じようとする。それは生を受けてすぐに無意識で行う作業である。だからこそ、愛情を確認しようと、唇を重ねようとするのかもしれない。

　そんなことを考えている時に、亮の手が佐智の手を取った。ふと佐智は亮を見返した。亮は正面を見たまま、力強い眼差しで車の進んでいく方向を見ていた。

「すまない。何となく、色んなことが許せなくて…お前の手を握ったからっていって何が解決するわけではないが、何となく人の温もりが欲しかったんだ」

　それだけ言うと亮はすぐに手を離した。亮の照れでもあったであろう。佐智を女として求めた訳ではないのだろうが、何となくそこに人が居て欲しかった。それは佐智にも分かるくらいの気持ちであった。ただそれが誰でもいいということではなかっただろうと…。

そう思うと佐智は思わず亮の手を取った。

「私も、亮先輩の手の温もりを感じたかったです」

　ただ一言だけで充分だった。それ以上の言葉はすぐにはいらなかった。そう、生という感覚がわかるのならば…。

　箕輪は人が居ない部屋に戻ることで気分が良かった。今は人の温もりなどはいらなかった。やっと解放された感覚であった。

ただ、温泉旅行の計画が全くというほど無になってしまったために、一日を浪費し、そして今日も浪費しようとしていた。

今頃は温泉宿に泊まり、のんびりとビールでも飲んでいたのはないかと思うと、酒を飲まずにはいられなかった。

　昨夜も、いつもよりも多めの酒量を飲んだためか、いつの間にか、居間で寝てしまった。それももどきではなく、ちゃんとしたビールを飲めるのも、一人であればこそであった。クーラーをつけていなかったせいか、暑さで眼を覚ましたが、何となく怠い気持ちがあり、酒を飲む気にも寝る気にもなれなかった。

　人が居ない部屋に居ることが苦しいわけではない。ただ、妻と二人で、途中からかりそめの生活を送っていた空間に身を置いていることが嫌であった。それでも一人というだけで気が楽であった。

本当に人間は人を愛しているのだろうか。ふと完全に覚め切らない頭の中でふと考えてしまった。

　様々な偽善と勘違いや、そんな感情に流されることによって虚像の愛という物が築かれていく。離婚というわけではないが、妻に対する気持ちがそう思わせていた。

昨日の女のコではないが、死にたいと思いながらも、死にたくないという二つの側面を持ち、逃げてきた。仮面夫婦と呼ばれる関係であったかもしれないが、妻は勿論死にたくはなかったのだろう。

　そう思うと殺した実感がなかったが、良心の呵責を感じてしまう。しかし、誰がその真相を信じてくれるだろう。確かに死因は今回の血液であるが、どこから感染したかなどというものは特定できるものではない。例え、不倫相手が生きていようとも、他のどこで感染してもおかしくない日本の状況であった。

　それほどまでに、愛情の無い夫婦は、どこかで欲望や抵抗を埋めるために、何かに手を出し、偽りか本物かは関係なく、人の温もりを求めてしまうのだろう。まぁ温もりとは言っているが、埋め合わせの為だけかもしれないが…。

　そんな箕輪の元に、石黒から電話が掛かってきたのは太陽が昇りきった１２時を幾分過ぎた頃であった。近くに来ているから会いたいということであった。

「まだ葬式も終わったばかりなのにすまないね」

　お茶を持ってきて向かい合って座った箕輪に石黒はいつもと変わらずに話しかけた。

「そういえば、この間聞いた探偵に、奥さんの浮気相手のことを調べてもらったんだが、どちらも変死の血液感染はしていないみたいなんだ」

「そうですか、じゃあどこか他でもらってきたのでしょう」

「そうとう愛情に飢えていたのかな、奥さんは」

　箕輪にとって、その言葉は重かった。もしかしたら、自分の愛情が足りなかったから、妻は浮気に走ったのかもしれない。女は相手を責めることが多いが、男は自らの心の中に答えを探してしまうものなのかもしれない。もしも相手を責めることができていたら、他の方法があったかもしれない。ただ、それをできなかったという事は、それほど色々なことを教授してできる人間では元々なかったのかもしれない。

「かもしれません。１２年一緒に暮らしてはいましたが、愛情はそれほど長続きしなかったですからね。どこかで埋め合わせをしたいというのは、男よりもむしろ女のほうでしょうからね」

「君の感染は無いと言い切れるんですね」

　石黒の眼が、箕輪に取っては追い詰める刑事の目のように感じられた。しかし石黒は刑事ではないし、本人もそんなことは考えていない。ただ罪の意識がそう思わせているだけなのだろう。石黒の中でも、感染経路を知りたいという純粋な物だけであった。

「はい、前回も言ったように、妻との行為はもう無かったですから」

　はっきりと答えると、どちらにしても忌引きということもあり、引き続き休むことを確約して、石黒は帰っていった。

　これが長年勤めた刑事などであれば、完全に追い詰められてしまうのかもしれない。いつの間にか、表情が変わっているかもしれなかった。

箕輪は恐怖を感じていたが、証拠が残っていないからと安心をしていた。もしも疑いがそこに存在していたとしても、最早知る術はないのだろうから…。

　　　（三）

「総理、まだ治まらないみたいですが、どのようになっているのですか」

　国会の中で野党からの叱咤が飛んだ。予定では変死における血液感染騒動はもう鎮静化してもおかしくはなかった。しかし、集団自殺や現実から眼を逸らした者たちの遊び半分の行為などもあり、一時期よりも死者は少なかったが、まだ完全に治まるということはなかった。

「一部ではまだそのような事があるようですが、随分と治まってきていると聞いています。その一部の人たちについてはこれから見当をさせていただくつもりです」

「つもりでは困るんです。医療機関もどのように対応していいか分からなくなっているのですから」

「一般の病気については、もうそのまま行っているはずです。それ以外の何に対して困るというのでしょうか」

「やはり医師が恐怖を覚え、開業していない医院もあるようですし」

「それは個々の判断で任せています。絶対的に医療が足りないのであれば問題ですが、そこまでの話は聞いていません」

　そんなやり取りがあった夜、藤原総理大臣は質問をしてきた山本議員に呼び出されていた。いつものように料亭である。なぜ議員が料亭を使うか、それは隔離された空間で、他者に話の内容を知られないようにであった。最近では少なくなっているが、やはり重要な時には隠れることでしか話はできなかった。

「総理、早く沈静化してもらわないと困るんですよ」

　山本は国会答弁の時と同じような質問をしてくる。しかし回答として欲しいものは病院が絡んでいるというものではなかった。自分が愛人と性行為に及ぶのが怖いということである。愛人を信用していないからそのような恐怖を覚えるのであろう。自分の欲望を全面に出して話をするなど、もっての他であると藤原は考えていた。だからこそ、早くに話を終わらせようとしていた。

「この愛人とのことが問題なのでしょうか」

　藤原は上着のポケットから一枚の写真を出した。山本の愛人の写真である。山本はうろたえるしかなかった。もっともらしい事を言っているが、所詮こんなものである。議員の一部には利権をむさぼりながら、自分たちの私利私欲のためにしか動いていない議員がいるのである。議員になったことを偉くなったと勘違いをして、行動するからであろう。真面目に身を粉にして仕事をしている議員ももちろんいるのであろうが、長老格の山本のような人間を藤原は好きではなかった。

　ではなぜ有権者たちがその議員を当選させるのであろうか。選挙のときにいい顔をして言っていることに賛同している人も勿論いるのであろうが、その議員が当選することによって利益を得る後援会がいるからである。少しでも、そんな議員が減ってくれることを藤原は祈っている。

「そんなことは」

　山本は言葉を濁しはじめる。追い詰められた男の陥落は早い。藤原はそのまま押し切り、変死事件の沈静は絶対に来るということを告げた。

　山本はそそくさと帰るしかなかった。

　一人になった座敷に、隣の部屋から斉藤事務次官が入ってきた。何かの時にしっかりと対応できるように藤原が呼んだのであった。

「ありがとう、まあ、あの程度で平気だったようだ。君をわざわざ呼んで済まないね」

「とんでもないです。今回の藤原総理の決断は、近くで見ている私としては最良のものであったと思っています」

「ありがとう」

　藤原は襖のそばで座っている斉藤を近くへと招き、ビールを飲めという仕草をした。斉藤はそれに従うようにして、グラスを持って近づいた。

「今回、坂口は使えなかったようだ。どちらかというと君の力があったからだろう」

「そう言って頂けると、公務員身寄りにつきますね」

　斉藤は豪快にグラスを煽ってから言った。

「君は議員になるつもりはないのか」

「私はありませんね。どちらかと言えば、退官したらのんびり過ごそうと思っています」

「君の能力ならばどこでも受け入れ先はあるのではないか」

「いや、女房とゆっくりする機会がなかったので、二人で旅行をしたりするつもりです。孫の顔も見に行きたいですしね」

　妻との愛情というものは、もうはじまった時とは違う感情であったかもしれない。しかし自分を支えてきてくれた妻に感謝を述べたいと斉藤は思っていた。事務次官になった時に妻とも話をしていた。

　忙しい中でやってきたので、妻もそれを望んでいる。それを聞いた時に、この女と一緒になって良かったと斉藤は染み染み感じていた。

終章

　藤原の絶対に治まるという言葉通り、悪ふざけをしていた若者たちも死に絶えたのか、それとも恐怖を感じたのか、居なくなっていった。勿論風俗も徹底的に取り締まりを強化して、外国人においてはビザが切れているような者は入管管理局に回された。違法の風俗はどこかに潜んでしまったのかもしれないが、できる限りの駆逐はしたつもりである。

　自殺志願の者たちの死体はこの１ヶ月の間に５万人を超えたといわれている。痛みも公共交通機関などに対する迷惑もなく死ねるということでそれほどの数が一気に、しかも全国規模で行われ、死んでいった。しかし、電車などに対する飛び込みは、なくなりはしなかった。追い詰められて死ぬ人たちは、死にたいというよりも、衝動的であり、人に対する迷惑など考えることはできないということなのだろう。

　なにはともあれ集団自殺をするものたちは若者が多かった。高齢化の進んでいる国が、更に高齢化に舵を取った状態になる。それは今回の変死事件に関しては仕方がないと思うしかなかった。

「もう変死の感染の患者は搬送されてこないですね」

「そうだな、あと１日くらい搬送されてこなければ藤原総理が終息宣言を発表するみたいだな」

　監察医務院でもそのような話が聞かれるようになっていた。それから４日後に、藤原総理大臣は血液による変死事件の終息を宣言し、渡航なども再開にこぎつけていた。

　第一便で送られたのは、ビザがなくなっている外国人労働者たちが多く含まれた便であった。そして日本人はというと、海外旅行よりも先に、仕事などの優先と、帰国する人たちが国際空港を埋め尽くしていた。

　まずは今回のことで停滞してしまった経済を動かすことが最優先と考えられたからである。

「箕輪さんも復帰してきたし、これからまた元どおりの生活に戻るんですね」

　三迫は石黒と共に話をしていた。石黒は箕輪が生きていることから、院内感染がなかったことをよしと考えていた。しかしながら、まだ三迫をはじめ他の医師には話をしていないが、箕輪はこの病院を辞めることになっていた。どのような経緯があったのか石黒にもわからない。しかしながら、ここに残ることを箕輪は拒否した。

　忌引きの時に、一人の少女に出会ったという話をしていたが、それが原因ではあるまい。石黒はそう考えていたが、実際箕輪からしてみれば、それがきっかけであったのかもしれないが、石黒と考えている方向性は異なっていた。

　動物の本能の一つには、生きることというものがある。決して死のうとしない、唯一人間のみが死というものを自らの手で行うことができるのである。よく追われた動物が後方から来る肉食動物から逃れるために崖下へ飛ぶといわれることがあるが、あれは自ら死を迎え入れようとしているわけではないだろう。追ってくる動物から何とか逃れようという思いから、死にたくないという考えから生じるものであろう。

　それとは異なり、人間の頭の中で、考えるという力の中で、死を迎え入れようとするものがあるが、本能が打ち勝った場合には、死にたくないという考えに陥るのである。

　自分の妻も死にたくはなかったのだろう。箕輪は、美穂という娘を見たときにそれを考えざるを得なかった。

殺すということよりも、辛くても面倒でも、別れ話を切り出すべきであったのだろう。

　そんな行動を起こし、死を他者に与えたという呵責が心にはあった。だからここには、観察医務院へ残ることはできないと思ったのだ。自らの罪を受け入れ、死を受け入れたくないという思いの人たちを救うために、ここから旅立とうとしているのである。

　集団自殺という死から逃れ、箕輪に送られて帰ってきた美穂は、大学生活を送りながら、自らが何をしたいかなどを模索しはじめた。何もなければ死に向かってしまう恐怖もあったが、自らが変わることによって、周りの人たちとの付き合いも変わっていくことを実感していたからだ。

　今まで自分が何もしてこなかったからこそ、これといって産まれてくるものもなかった。甘えの中からでは何も出来るものは増えてこない。教育や環境のせいもあるかもしれないが、自分自身が思い描き、努力をしなければ、決して周りも、自らの能力もついてこないことを今回の事を気に知った。

　だからこそ、今日もサークル活動の中で、亮や佐智と共に新しい人生が送れていることを実感していた。この実感があるからこそ、生きていると思えるのである。決してネットなどが悪いわけではないが、実態がない世界で実感を得られる人たちはそれほど多いものではない。

　実感を得られないからこそ、何をして良いのか分からなくなるのである。それを踏まえて考える力がなければならないということだ。汗をかき、体の、筋肉の痛みを覚えてこそ、生きていると実感できる自分の弱さを、美穂はやっと受け入れることができた。

　頭の良い人は、体の痛みなど無くても実感は出来るのである。しかし、そうでない人たちは、生きるということを、体で実感しなければならないのである。

　サークル活動が終わった後、亮と佐智、それに美穂は三迫と会うことになっていた。居酒屋で酒を飲みながらである。

今日は三迫が奢ってくれることになっていた。変死騒動が一段落したことと、血液感染という思いを想像させてくれたりしたお礼だという。しかし亮も佐智もそんなことは特に考えていなかった。ただ、改めて出会った人との繋がりを大切にしたいと考えていた。

「遅くなってすまない」

　約束の時間に１０分ほど遅れてきた三迫は、電車の遅延による遅れを理由にすることなく謝った。

「１０分だとそれほど遅くはないですよ」

「しかし遅刻は遅刻だからね」

「私たちの世代だと、携帯もあって連絡をとっているから１０分くらいだと遅刻とは思いませんよ」

　美穂は１０分に対して謝る三迫の世代と自分たちの世代のズレに少し戸惑うところがあったようである。

「だけど約束の時間に遅れるということは、人としていけないことではないかな…。まあ、こんな話をしていると楽しく飲めなくなるから、まずは酒でも頼むか」

　先に着ていた三人は三迫が来るまで飲み物を注文していなかったようで、一緒に注文をすることになった。三迫はメールで先に頼んでいてといったのだが、待っていてくれたようである。

「では、変死事件の鎮静に乾杯」

　亮は高らかに音頭を取った。終息という事態は嬉しいし、それに対する乾杯ではあるのだが、友人たちの死などに対する悲しみはもちろんあった。ある意味三迫と出会い敵をとったようにも思えていた。だからこそ乾杯で良いと思っていた。

「確かに鎮静したことは良かった。けれども君たちの友人も数人亡くなったようで、もっと早く何とか出来ていればよかったのだが」

「三迫さんがどうにかできる問題ではなかったでしょうから、仕方ないですよ。しかも今回の変死の広がりの一部は、自業自得ということもいえたでしょうから」

　確かにその側面はあった。一部は人間たちが、自分の欲望のあまり、いたずらに感染源を増やしていった。いつの間にか出来た、倫理感というものにだけ従っていれば、不倫や集団自殺のためなどといものは広がりを見せなかった。そう考えると半数以上の人たちが、人為的に死に追いやられていったのかもしれないと思えてしまう。

「そういえば箕輪さんはお元気ですか」

　三迫と数回あっただけであるが、美穂は箕輪の名刺と三迫の話から、同じ職場であることを知った。その後、数回箕輪の話を三迫としているのである。

「戻ってきて一緒に仕事をやっているよ。変死騒ぎの頃と比べると随分と落ち着いたからのんびりやっているけどね」

「そうですか、お元気なら何よりです。箕輪さんに出会っていなかったら、私はどうしていたのかと考えていましたから」

「なぜ集団自殺に加わろうと思ったか、もしくはなぜ死のうと思ったかとか、もう関係ないんだろうけどね」

「確かに関係ないのかもしれません。しかし考えるんですよ。なんで人間は死のうとするのか、生きようとするのかって」

「生きようとすることは本能だろう。動物だって植物だって死のうとはしない。自分を守ろうとするから他の物たちを排除したりもする。唯一人間だけが持っている感覚なんだろう、死のうとするのは」

「そうですね、そのために悪いことをすることもあるでしょう」

「だろうね。俺は思うんだ、人間は生まれながらにして善であるという、性善説は存在しないのではないかって。だってそうだろう、善であれば教育や環境云々ではなく、悪いことをしない。しかし、悪いことをする人たちは、場合によっては教育を受けていない人たちが多いんだ。現代社会に適合する教育を受けていないからこそ、そうなるのだろう」

「そうかもしれないですね。動物は生きるために、食料とするために他の動物を殺める場合があるけれど、人間はそうでなくても、人を殺す。勿論食べるためなんてことはない。縄張り争いで同系の動物が戦うように、利権で人を殺す。それに理由がない殺しなんていうのもある」

「人が自殺を考えるように、人の死を考えることができたならば、動物とは違って殺すということにもっと違う感覚が生まれるのかもしれない。頭が働かないから、人を殺めるのかもしれないな」

「三迫さんはそれを持って、性善説はありえないと」

「そうだ、だからこそ俺は性悪説だと思っているし、他の動物と違う感覚で、殺めるということをするんだと思う。そこに悪気なども存在しないのは、教育が行き届かないからだし、産まれた環境によっても左右されるのだろう」

　箕輪は、三迫たちが話していた性悪説に一人で悩んでいた。生まれながらにして、人を殺めることを何とも思わなかったのかもしれない。しかしながら、考えると死にたくない動物たちがいて、その動物に人間も含まれる。自分たちが悪の部分を多く持ち合わせているからこそ、妻を殺すという、罪悪の希薄さが存在したのだろう。そして実行できたのだろう。

　それを今一度変えるために、現代社会に適合するために、頭を働かせなければならないのだと…。

　変死事件が沈静化してから１ヶ月が経ち、夏の暑さが嘘のように消え始めた頃であった。日中と夜の寒暖差が少しずつ体を冬仕様へと変化させていく。

　晴れた、澄んだ空の下で、人間として生きている実感を体で受け止めている。変死事件に怯えていた人たちも、以前と変わらない生活へと戻っている。打撃を受けていた経済状況も好転している。まあデフレが長く続いた日本の状況は変わることはまだないが…。

箕輪は罪の意識があるまま、成田空港のロビーにいた。

　平日ということもあり、見送りにきたのは三迫と美穂の二人だけであった。

「逆に二人だけでよかったのかもしれない」

「何をおっしゃっているんですか、本当はみんなも来たかったんですが、やはり仕事を全員で休むことなどできないですからね」

　二人は缶コーヒーを飲みながら、話していた。

「これから何をされるんですか」

「海外に行って、国境の無い医師団に参加するよ。罪を償うためにも、そこで多くの命を救ってくるよ」

「罪って、今回の変死事件のことなら、別に箕輪さんのせいでもないですし、ましてや救えない命があったのも仕方がないことだと思うのですが」

　箕輪は三迫の視線を外し、腕時計を見た。これは妻と仲の良かった頃、二人で休日に出かけて買ってもらったものである。彼女からの贈り物はこれが最後であった。それ以降に二人の間で贈る物は愛情も含めてなくなっていった。

「もう搭乗ゲートに向かわなきゃならない。だから最後に、二人にだからこそ言える俺の懺悔を聞いてくれ」

　神妙な面持ちの箕輪の言葉に耐えられなくなったのか、美穂は手に持っていたジュースを一口、口腔に流し込んだ。美穂からしてみれば、新たに生きる力をもらった人の位置付けの箕輪に、何の懺悔があるのかと思った。

「俺の妻の死は、実は変死の血液感染なんだ」

「それは私も確認したから分かっています。実際どこから感染したのかはわからなかったようですが」

　改めて箕輪の妻の死を語る必要性はなかった。三迫としてはそれこそ罪の意識がそこにあるのはおかしいと感じていた。しかし箕輪は自らの行動を正しいとは思わなかった。一呼吸おいてそれを口にした。

「あれは俺の仕業だよ。俺が検査院から原因物質の入った血液を持ち出した。そして就寝中の妻に注射でうったんだ」

　二人は衝撃を隠せなかった。美穂は自分を救ってくれた人の告白だけに、その思いは複雑であったし、受け入れることはしづらかった。

「でも人は、人の、動物の本能は生きようとするんだよな。死のうとする本能はない。美穂ちゃんを見て思ったんだ。けれども俺は日常の愛の無い生活に疲れて、その尊厳を破った。面倒でも離婚をしていればまだ良かったんだ。そうすればあいつには別の人生があったかもしれない。だけど俺の感覚は実感の無い死に囲まれて麻痺していたんだろうな」

　箕輪は自らの言葉を噛みしめるようにして、再び缶コーヒーを乾き始めた口の中に放り込んだ。そして潤った舌で話を続けた。

「いや、麻痺なんかじゃない。俺の元々の悪の部分が俺をそうさせたに違いない」

　三迫はどのようにして良いのかわからなかった。しかし、これから箕輪が向かう地域は本当の紛争地帯である。平和な日本とは比べ物にならないくらい、今回の変死事件のように、いつ死が迫ってくるかもわからない地域である。そこで、本当に妻に対する贖罪を償おうとしているのかもしれない。

　箕輪の顔には、その地域に行く覚悟と共に、死んでも、死ぬまでやり遂げなければならない気持ちが胸の中にあった。その顔を見ると二人は何も言えずにいた。

「悪いけど、もういくよ。二人の胸に刻んでおいてくれ。国外に逃げた殺人鬼が…

性悪であった奴がいたことを」

　そういって二人の前から箕輪は去っていった。

　例え殺人を犯していても、美穂は自らを変えるきっかけを作ってくれた箕輪に感謝していた。自分がこれからどのように生きていくか、それを箕輪に誇れる時がくる時を願ってであった。

　三迫はただただ、元同僚となった箕輪を見送ることしかできなかった。今更彼を通報し証言台に立たせても意味はないと思ったからだ。これから箕輪にはもっと過酷な日々が待っているのだろう。せめてそこで罪を償え、心が晴れることを願っていた。

　帰りの車の中で、美穂は三迫に誓っていた。

「人間が性悪説であり、それを教育でもしも帰ることができるのならば…

私は教育者になって、少なからず箕輪さんのように思う人を減らしていきたい」

「大丈夫、人間はそんなに愚かではない。けれども、美穂ちゃんが少なからず、目標を持って生きていく道を見つけられたのであれば、応援させてもらうよ。それに箕輪さんだってもちろんそう思うだろう」

　澄んだ空が、何も言わずに佇んでいるのを、三迫は良しと思っていた。誰もがそんな澄んだ心になれる日がくるかわからないが、そうしたい美穂の気持ちは受け入れられるものであった。

「そんな事を言われていたのですか」

　三迫と美穂と合流した亮と佐智は、最後に残した箕輪の言葉を聞いた。

「本当だとしたら、あの人は今、どんな気分なんだろう」

「そうだな、たぶん償うことにしか向いていないだろうな」

　ビールを片手にしながら三迫は言った。一番やるせない気持ちでいるのは箕輪と共に働いてきた三迫本人なのかもしれない。けれども美穂がそれをきっかけに教鞭をとろうとしていることを知った三人は、嬉しく思え、その気持ちがアルコールを促進させていた。

　何の気なしに飲んでいられる平凡な日が、いつまで続くのかはわからないが、平凡がいかに難しいか、今回の事件だけではなく、箕輪の話を聞いて考えさせられる気がしていた。

　二人と別れたあと、佐智は亮に問いかけた。

「亮先輩、人間の気持ちってどれだけ長く続くんでしょうね」

　愛の無くなった箕輪の生活を考えると、これから長く人を愛したい気持ちに疑問が湧いてくる。もちろん、仲睦まじい夫婦がいることも確かであるが、そうでない人たちが大勢いることも知っているからこそ、考えてしまった。

「さあな、動物から進化して、動物の中でも優れた存在になっているつもりだけど、精神はそれほど人間の変化に付いていっていないのかもしれない。考えるけれども、それに付いていかない精神が、人間の感情の崩壊を招こうとしているのかもしれない」

「精神と人間の変化ですか、そこに化学がついてきて尚更なのかもしれませんね」

「精神がついていかないからこそ、好きなどの感情も暴走するのかもしれない」

「それでも、そんな精神の未熟な状態でいつまで続くかわからないけど、今、私は亮先輩のことが好きです」

　そんな言葉を聞いて、亮はそっと佐智の手を握った。人は人の温もりを感じるからこそで生きていける。そしてそこから、遺伝子をつなごうとしていく。誰が動物や植物に繋ぐことを課したかはわからない。だが今回の変死事件では性行為が一番の原因であった。しかしながら、種の保存として性行為は無くてはならないものである。

　その上で　現代社会にあった理性がなければならない。犬や猫のように、オスが無理やりメスに種を植え付ければよいというものでもないし、快楽のためのみに、お互いが求め合えば良いというものでもない。どれも嘘ではないだけに、それをどのようにすればよいのかなどもわかるはずはない。

　動物ではなく、人として、どこに終着点があるかはわからないし、行き着く答えを見つけなければならないということでもない。

　だが、人として、考えなければならない。生や性だけではない、全ての物質社会と、自己保存、自己愛などにおいて全てであろう。その上で、人を愛し、慈しみ、育てていくということを…。

　私たち人間は考えなければならない。

　佐智はそんなことを考えていた。

今回の変死事件がどのようにして、生まれてきたのかはわからない。

対処の方法も未だに分かっていない。研究と称して一部の機関には血液の原因物質は残されているが、巷に出回っていたものはほぼ除去された。除去というよりも、存在ができない状態になって消滅したという事が事実なのだが…。

　しかし箕輪ではないが、いつそれ世に持ち出されるかわからない。そこは人間の良心が大きく関係してくる。自分の利益に捕らわれ、他人を無視したりすることによって、自分では使いたくない物も売るような社会なのだし、人を傷つけることも、戦争などによって利益を得ることも厭わないのが人間なのだから…。

　だからこそ、私たち人間は、考えなければならない…。

　亮の手を強く握りしめながら、佐智は思っていた。