| 第二章 移籍（一） ボクシングジムに通うことになった私は、気合を入れて、ジムの扉を開いた。夏 の暑さが、日陰になっているジムの中にこもっている。当たり前のようだが、ジム に冷房設備などはない。へたすると、外のほうが涼しいのではないかと思えるほど だ。それでも、ボクサーは練習をしなくてはならない。けれども、それはどのスポ ーツにおいても同じことである。 意を決して、ジムの戸を開ける。練習時間は昼、１時からである。仕事の関係上 その時間からの練習になる。丁度陽が高く、厚くなる時間である。だからという訳 ではないが、練習生は少ない。私を含めて３人だけである。しかも、まだまだ１０ 代の若々しい肉体は、私にとっては羨ましかった。 会長には、以前「プロ」であったことも告げてある。しかし、ブランクが長く、 ほぼ素人である事も承知しているはずである。約５年。それだけ身体をほったらか しにしていれば、それは当たり前のことである。 それでも、自分の頭の中のイメージは過去を払拭できてはいなかった。 何を思ったか、絶対的な自信を持って練習に挑んでいく。身体が本式に動いてい るかどうか、確認する余裕などはない。けれども、必死に練習に取り組んでいく。 できれば今一度プロになどという甘い考えが、さらに気持ちに拍車をかけていただ ろう。 若い練習生たちと、マスボクシングを数ラウンド。やはり身体は正直だ。特に、 ボクシングをしていなかった眼は、パンチを見るのに一苦労である。いざ、見えた と思うと、すでに避け切れない。一応当てないことになっていても、すべてを当て ないのは難しい。打つほうも、避けるほうも…。そして、大きな練習用のグローブ も、次第に重くなってくる。 けれども練習の手を休めなかったのは、若い彼ら以上に、自分がやれることを示 したいと思う気持ちの表われだったのだろう。しかし、それが良くなかった。 サンドバックを打ち終わり、練習を終えてシャワーを浴びた後にもかかわらず、 止まることのない汗をかきながら家路へと向かう。何だか身体に違和感を感じなが らも、睡眠を取ればなんてことはないと勝手に考えていた。 その日はかなりの暑さであった。それだけに留まらず、湿度のせいもあってか、 空気が全体的に重く感じる。眠りにつき始めたときは、そんな感覚を持っていたの だが、仕事をはじめることには、そんな感覚がなくなってきた。 知り合いにあって、「何だか涼しくなったね」という言葉を吐いたら、大丈夫と の返答がすぐに返ってきた。身体から汗が出ないのである。暑さも感じない。一体 自分の身体はどうしたのだろう。まあいいか、と思いながら、仕事をはじめると、 どんどんと身体は重くなってくる。立っているのも辛い。このままではいけない。 と店を閉め、冷房を消した店の椅子の上に寝転んだ。２時間くらいしてからであろ うか、やっと汗が出始めた。身体の中にこもっていた熱がやっと吐き出された。 あのままでは、どうにも成らなかったと思う。へたすれば、熱中病になっていた のかもしれない。これからは練習も考えながらやらなければ…。少しばかりの反省 であった。 ２００２年８月。２７歳で実感した、現在の肉体状況であった。 |
| 第二章 移籍（二） 前回、体調を崩したこともあってか、少しだけセーブしながら練習を続ける日 々が続いた。暑さはまだまだおさまる気配を見せない。歩いていても、汗が流れ でる状況の中で、トレーナーを着込んでの練習は、見ている者を視覚的に嫌がら せしているようにしか思えないのかもしれなかった。 練習を終えると、滝のように流れた汗が、Ｔシャツに吸収されつくしている。 絞るとビチャビチャと、まるで雑巾のように汗が飛び散る。けれども毎日のよう に代謝作業をしているせいか、あまりべたつくような事はない。それどころか、 濃い食べ物を食べた次の日には、汗がしょっぱく感じるようになってきた。それ でも体重は変わらない。というよりも、筋肉の増加に伴い、少しばかり増えたの ではないかと思うほどである。 他のジムでボクシングを諦めていた男がいた。しかし、年齢はまだまだ若く、 今一度という思いでジムの門を叩いた。そして頭角を現していくのではと思える ボクサーとマスボクシングをすることになった。こっちは元プロなどという今更 ながらの思いを抱いている。それを誇りにする訳ではないが、ちょっとばかりは 対等に事を運べると勘違いをしていた。 いや、まんざら勘違いではなかったかもしれないが、所詮マスボクシングであ る。ある種の本気とは違っていた。しかし、思わず力が入ってしまう時はあるも のだ。 たまたま避けられなかった私も私である。彼の拳が右目に当たった。妙な違和 感を感じながらも、マスボクシングは続けられたが、その後の練習はする気にな れなかった。 翌日になると、目の前に黒い斑点のようなものが見える。ボクサーの職業病に 数えられる事例で、主にそんな症状が出てくる病気がある。「網膜はく離」であ る。そんな事はないだろう。それが本当ならば、ボクシングどころではなくなっ てしまう。そんな恐怖に襲われながら、するべきことは一つしかなかった。ちゃ んと病院に行って真相を確かめることしか…。 ２００２年９月の出来事であった。 |